2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
我が心の稲盛和夫①
  • 作家五木寛之

「利他」の灯をかかげて

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同年生まれの人物の死

ひつぎおおいて事定まる〉という。その人の評価は死後において真に明きらかになる、ということとされている。

しかし、これは本当だろうか。古代から現代にいたるまでの歴史上の人物の評価は、はたして確固として定まっているのだろうか。

残念ながらそうではない。教科書にのるような伝説の名士が、一転して批判の対象になることもあれば、その逆もある。

また一方で絶讃の嵐に包まれながら、立場を異にする人びとからはほとんど黙殺される場合もある。明治維新以降の近代の人物群像にしても、時代の変動とともに評価が逆転している例も少くない。

今年は多くの著名人が世を去った。ソ連に雪どけをもたらしたゴルバチョフ。映像の革命家ゴダール。そして70数年の英国女王エリザベス。

多くの故人のなかでも、1932年、昭和7年という、私と同年生まれの二人の人物の死が私には感慨ぶかいものがあった。石原慎太郎氏と、稲盛和夫氏のお二人である。

石原慎太郎さんについては、死後さまざまな論評が展開された。文壇に強烈なインパクトをあたえた作家であるから当然だろう。私も半ば強制的に、いくつかの感想を述べた。

稲盛さんの死も、私にとっては感慨ぶかいものだった。経営者と作家という立場のちがいがありながら、私は稲盛さんと一冊の対談本をじょうしている。いわば文友ともいうべき間柄だったからである。

私は書くことをなりわいとしていながら、実は言葉をもって語ることを最も大事に思っている人間である。したがって一冊の長編小説と同様に、いや、それ以上に対談というものを重要視してきた。私にとって対談は作家のではない。

ガウタマ・ブッタ、いわゆる仏陀ぶっだと呼ばれる人物を私が尊敬する理由の一つは、彼が終生、言葉の人として生きたことである。

樹下で真理に目覚めた彼は、その後の数十年の生涯で何をしたか。万巻の仏典の種は、仏陀の語る言葉にあった。〈にょもん〉、このように自分はブッダの言葉を聞いたのだ、というのが、いわゆる仏教のはじまりである。ブッダはその生涯を、問答と説法で通した。問答とは今の対談であり、説法とは講演のことだ。ブッダだけではない。ソクラテスも、イエス・キリストもそうである。彼らは自分では一冊の本も書かなかった。講話と対話によって、その思想は後世に伝えられたのだ。

そんなわけで、偉大な先人のひそみにならって、私は新人作家の頃から90歳の今日まで、対談を自分の本業の仕事として特別に大切にしてきたのである。

作家

五木寛之

いつき・ひろゆき

昭和7年福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮に渡り、22年に引き揚げる。早稲田大学露文科中退後、PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、41年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、42年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、51年『青春の門・筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞を受賞。14年菊池寛賞を受賞。22年に刊行された『親鸞』で毎日出版文化賞を受賞。稲盛和夫氏との共著に『何のために生きるのか』(致知出版社)がある。