2024年5月号
特集
まずたゆまず
対談
  • 二宮総本家当主二宮康裕
  • 作家北 康利

二宮尊徳の
歩いた道

報徳仕法という独自の理論によって600を超える村々を窮乏から救った農政家・二宮尊徳(金次郎)。他に類を見ない財政家であり思想家、土木技師でもあった尊徳だが、その存在は日本人の間から次第に忘れられつつある。「倦まず弛まず」の言葉の如く、常に率先垂範で農村改革を推進した尊徳に私たちが学ぶべきものは多い。その歩みや信条を二宮総本家当主・二宮康裕氏と、弊誌にて「二宮尊徳 世界に誇るべき偉人の生涯」の連載を始めた作家・北 康利氏に語り合っていただいた。

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史料で明らかになる二宮金次郎の実像

二宮 初めてお目に掛かります。本日はお話ができることを楽しみにしていました。

 私のほうこそ二宮総本家のご当主にお会いできたことを大変光栄に思っております。きょうは少し早めに小田原に入りましたので、金次郎の故郷であるここ栢山かやま一帯を歩き、幼少期に菜の花を植えた顕彰碑の前にたたずみながら、そのとうくつの人生に思いをめぐらせておりました。

二宮 そうでしたか。北さんが『致知』で「二宮尊徳 世界に誇るべき偉人の生涯」の連載を始められたと聞いて、私も拝見いたしました。金次郎の遺体が小田原ではなく日光に埋葬されていることなど大変重要な問題に着目してくださったことを嬉しく思います。

 お読みいただいたのですね。ありがとうございます。二宮さんは長年、金次郎の著作や日記、書簡などをもとに丹念に研究してこられたと伺っていますので、きょうは胸をお借りするつもりでまいりました。

二宮 金次郎といえば、たきぎを背負って歩きながら本を読んでいる銅像をイメージする人が多いと思います。大変勤勉で向学心に燃えていたことは、19歳から約50年にわたって書き続けた日記の記載からも明らかなのですが、金次郎像はあくまでも「物語の中の少年」にすぎません。
金次郎の思想や業績に対する生きた記録は、主著『三才さんさい報徳ほうとくきん毛録もうろく』などの著作や日記、仕法しほう書(農村改革事業の計画書)に残されています。またこれらは全集に収められていて、その量は実に36巻、4万6,000ページに及びますので、研究者でも尻込みしているのが実情なんです。金次郎自身、亡くなる前年に「が書簡を見よ、予が日記を見よ」と書き残していて、金次郎研究の原点はここにあるというのが私の一貫した研究のスタンスでもあるんですね。

 膨大な史料を一つひとつ読み込んで研究してこられたのですね。

二宮 私が二宮一族という前提でお話しすると、金次郎は14歳(以下、数え年)で父を、16歳で母を失い、弟たちと別れて伯父の万兵衛に預けられます。金次郎が夜遅く行灯あんどんの明かりで読書をしていると万兵衛は「百姓に学問はいらない。油がもったいない」としかって学問を禁止した。万兵衛にはそのような悪いイメージがつきまとってきました。しかし、二宮家では代々「お人よしの万兵衛」と言われているんです。
金次郎の門弟・町田時右衛門が1844年、栢山村の古老たちに聞き取り調査した記録が残っているのですが、それを読むと万兵衛は金次郎に対して百姓の本分に精魂を傾けるようさとしたものの、学びたいという思いに同意しています。「夜学のための行灯の油をどうするのか」という万兵衛の質問に、金次郎は「所有地に菜種をき菜種の実を収穫します」と答えている。つまり、万兵衛は金次郎に農民の心得を説き、学びたければ自分で対策を考えよと自活の道を勧めていたわけです。
これは金次郎一家のことを知る古老たちへの聞き取り調査を記録したものですから、しんぴょうせいが高いと言えると思います。後に栢山村で仕法(農村の改革事業)が行われた時、多くの寄付をして農民たちの借金を返済したのも万兵衛でした。
明治に入り1908年に出された『報徳之真髄』には、栢山村の小学校で金次郎の伝記を教わった村の子供たちが万兵衛の孫をいじめてつまはじきにしたと書かれていますが、万兵衛が悪く書かれるのは二宮家として残念という他なく、物語や伝聞ではなく以上述べたような真実を伝えていきたいというのが私の思いなんですね。

二宮総本家当主

二宮康裕

にのみや・やすひろ

昭和22年神奈川県生まれ。東北大学大学院博士課程前期(日本思想史)修了、同後期中退。出版社編集部、公立学校教員を経て、二宮金次郎研究に専念。二宮総本家当主。著書に『日記・書簡・仕法書・著作から見た二宮金次郎の人生と思想』(麗澤大学出版会)『二宮金次郎正伝』(モラロジー研究所)『日本人のこころの言葉 二宮金次郎』(創元社)『二宮金次郎と善栄寺』(スポーツプラザ報徳)など。

日本人が忘れた金次郎の存在

二宮 北さんが『致知』で金次郎の連載を始められたのは、どういう思いからですか。

 私が金次郎を取り上げたいと思った理由は、連載の冒頭に掲げた武者小路実篤むしゃのこうじさねあつの言葉に集約されています。
「二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ」
実篤のこの言葉は、金次郎の偉大さを説いて余りあるのではないでしょうか。
そもそも私が評伝を書くようになった理由は、「人間とはどういう存在なのだろう」「生きるとはどういうことなのだろう」という誰しもが抱く疑問に対し、いろいろな偉人の人生を通してえんえきてきにその答えに迫りたいと思ったからです。
松下幸之助、稲盛和夫といった偉人は皆、こうすれば人生やビジネスは必ずうまくいくという普遍的な極意を見出しています。その中でも群を抜いているのが金次郎なんです。私が評伝を書いた銀行王・安田善次郎も渋沢栄一も金次郎から多くを学んでいますし、真珠王・もと幸吉は「海の二宮尊徳たらん」という言葉さえ残しています。

二宮 金次郎が後世の人たちにどれだけの影響を与えたかがよく分かります。

 実は私に金次郎を書くことを勧めてくださった人がいました。一人は藤野英人さんという投資信託の世界に身を置く金融マン。もう一人は木下ひとしさんという地域活性化に取り組むまちづくりの専門家です。現代の金融マンが新NIニーSAのよさを伝えたいと思って江戸時代の金次郎を引用したりするのですから面白いですよね。
地方活性化にしても、史上最も実績を残した人物は誰かと言えば、間違いなく600の村々の再建に取り組んだ金次郎なのです。最近、人口増加策で注目を浴びた首長さんもいらっしゃいますが、金次郎はその先駆者です。
そんな金次郎の偉大さを日本人は忘れてしまい、金次郎像は「歩きスマホ」を連想させるといって撤去してしまったりする。それは金次郎の偉大な人生を小学校の先生が教えられないからです。これは武者小路実篤が言う通り日本人の恥です。そのことを一人でも多くの日本人、特に若い世代の人たちに認識してほしい。それが、この連載の大きな狙いでもあるのです。

作家

北 康利

きた・やすとし

昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞受賞。著書に『思い邪なし 京セラ創業者稲盛和夫』(毎日新聞出版)など多数。近著に『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』(プレジデント社)がある。