2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
我が心の稲盛和夫⑥
  • 京都サンガF.C.社長伊藤雅章

人として正しい道を貫け

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京セラ本社で目の当たりにした衝撃

一つの時代が終わった──。稲盛会長のご訃報に驚きはあったものの、いま私の胸中にはそんな思いが静かに湧き上がってきます。

稲盛会長との出逢いはいまから41年前、1981年にさかのぼります。当時、就職活動をしていた私は『四季報』で目に留まった京セラに興味を持ち、「面接を受けたい」と電話を掛けました。「いますぐ来てください」と言われて向かったのは、京都のやましなにポツンと建つ5階建ての本社。

そこで目に映ったのは、1階のロビーを忙しそうに駆け回っている社員の姿でした。当時の私は不勉強で、京セラが何を作っている会社なのかすらよく分からなかったものの、社内に渦巻く活気に圧倒され、衝撃を受けました。「この会社はすごい」、そう感動して入社のご縁をいただいたことを昨日のことのように思い出すのです。

入社後、営業管理や労働組合の書記長を経て、広報の責任者として稲盛会長のそばで仕事をするようになったのは、39歳の時です。

当時、65歳で得度とくどをされた稲盛会長に対して、1部のマスコミがこぞって批判的な記事を書いたことがありました。誤った報道や誹謗ひぼう中傷が拡散される状況に対処するため、この役割を与えられたのです。それから17年にわたり、毎週のように、稲盛会長と顔を合わせて仕事をさせていただきました。

その中で心に残っていることは数多くありますが、いまでも忘れられない思い出があります。

当時、稲盛会長の報道に関して報告をする役目にあった私は、上司に喜んでもらいたいという気持ちからついしかられそうな報告を後回しにしようとしたことがありました。稲盛会長は普段は決して怒らない方ですが、そういう時は必ず、後ろめたい私の気持ちを見抜かれるのです。

「なんでや。なんでそうなるんや」

報告に対してそう繰り返し聞かれ、その質問に答えようとすると、だんだんつじつまが合わなくなりボロが出てしまう。その時、稲盛会長は自分の嫌な部分を映し出す鏡だとつくづく思ったことを覚えています。そして、何が起こったとしても、誠実に正直に対応する、人として正しいことを貫く、仕事人としてのベースを直接叩き込んでいただいたのです。

京都サンガF.C.社長

伊藤雅章

いとう・まさあき

昭和33年生まれ。58年3月京セラ入社。営業管理や広報室長、執行役員総務人事本部副本部長などを経て平成24年4月京都パープルサンガの社外取締役に就任。30年より現職。