2024年7月号
特集
師資相承
対談
  • 葆里湛シェフ後藤光雄
  • アル・ケッチァーノオーナーシェフ奥田政行

己のコスモを
抱いて生きる

庄内地方の田園が見渡せる本店に、全国の食通が足を運ぶアル・ケッチァーノ。シェフの奥田政行氏は地場食材を使った独自のイタリアンを発信、山形県鶴岡市を「ユネスコ食文化創造都市」認定へ導いた立役者である。その氏が師と呼んで憚(はばか)らないのが、世界初の遠赤外線による調理法を確立した後藤光雄シェフだ。30年来の師弟関係にある両氏から、技術と精神の伝承、師資相承の真髄を探る。

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本対談は5月1日、奥田氏の直営店である東京・銀座の〈ヤマガタサン ダン デロ〉にて行われた。

料理人にゴールはない

奥田 きょうは僕が駆け出しの頃に薫陶を受けた後藤シェフが香港に新店をオープンされるにあたって、山形からとよまで車を走らせて、香港での仕入れの打ち合わせをしてきました。シェフと一緒に店に立つ僕の弟子とも入念な打ち合わせができましたし、『致知』の取材をこの日にしてもらえて本当によかったです。

後藤 そうだね。昨日から一睡もしていないみたいですけど。

奥田 はい。きょうでないと時間が合わないので、夜12時半に山形を出て徹夜で来ました。
それはそうと、先月はつるおかのアル・ケッチァーノまでお越しいただいて、ありがとうございました。

後藤 別件で会う予定だったのに、前日かな?「ちょうど入社式もあるので、新入社員に軽くお話をしていただけますか」と言われて、お店に着いてドアを開けたら、いきなり奥田シェフからマイクを渡された。

奥田 皆に「僕の師匠が来ました」って(笑)。

後藤 準備できていなかったから、18歳くらいの子たちを前に、思いついた話をしました。僕自身が若い時から料理人として意識してきた、目標の持ち方ですね。
例えば入社して、こうなりたいという目標を1つ決めるとします。それを3か月、半年、1年、3年、5年と、いつどこまで達成するか整理して落とし込む。その節目に達した時、満足しないで「よし、ここまでのスキルを得た。これにもっと肉づけをしてレベルアップしよう」と考えるんです。
それで3年、5年、10年やっていくと、ある程度は料理人としてものになります。ただ、それでも足りない部分はあるから、今度は20年目にどうなりたいか考える。すると「もっと違う道を歩みたい」という欲が湧いてきて、そこからまだ成長できるわけです。

奥田 後藤シェフ自身がそういう意識を絶やさずにやってきた。

後藤 僕は今年(2024年)で料理人になって52年、この7月でを迎えます。これから香港に店を開いてチャレンジしようとしています。ふと、自分たち料理人が納得するゴールって何だ、と考えました。10年、20年、30年……70歳で俺はまだ満足していない。ああ、料理人にゴールはないんだと、ようやく気がついたんです。
要は、70のおじいさんが外国でトライする、料理人というのはそういう世界だよ、この年齢でも挑戦できるんだよと。

奥田 なんで後藤シェフにスピーチを頼んだのかというと、入社式のテーマは〝修行〟、何のために修行するのか、でしたから。
僕は、自分の考えを形にする技を学ぶことを〝修業〟だと考えています。〝業〟は生業なりわいの業、料理人の技術のことです。じゃあ〝修行〟はどういう意味か。〝行い〟を修める、心を磨いて人として成長することです。修業するうちに修行できるようになるんです。
それを若い僕に教えてくれたのが後藤シェフでした。昔の思い出を聞かれた時、必ず話すのは、生きるか死ぬかだったあの修行時代のことです。戻りたいとは思いませんけど、そのおかげでいまがあるんだと、僕は思っています。

葆里湛シェフ

後藤光雄

ごとう・みつお

昭和29年東京都生まれ。高校卒業後、東京のレストランを中心に修業を積み55年渡仏。63年「葆里湛」伊勢丹店にて低温調理遠赤外線を開発。平成7年より17年まで「ア・ヴォートル・サンテ」オーナーシェフ。25年香港「葆里湛」で低温調理遠赤外線を伝授。同店休業に伴い帰国後はパーソナルシェフとして活躍、令和6年より再開店。

修行には段位がある

後藤 いま、アル・ケッチァーノは日本中に展開していますね。

奥田 直営店が9つと、僕がプロデュースした店が13店舗です。

後藤 それはすごい。初めて会ったのはもう30年以上前ですが、当時、料理人というと地方出身が大半で、僕のように東京が地元という人はほぼいなかった。奥田シェフの印象は、田舎から来た素朴な青年という感じでした。いまはこんなに貫禄があるけど(笑)、きゃしゃでイケメンでしたよね。

奥田 高校卒業と同時に山形から東京に出てきて、あの時は22歳でした。僕は実家が飲食店で、小学4年生から手伝いに入っていたので、手先はそれなりに慣れていました。ですからそれまでいたイタリアンレストランとフランス菓子店では割合いいポストに就かせてもらえて、紹介で後藤シェフのいる新宿3丁目の高級ステーキ店「タン」に面接に行きました。
あの時のことはよく覚えています。「この時代だから、俺は殴らないよ」と言われて、ああ、いいシェフだなぁと思いました(笑)。

後藤 それでだまされたんだ(笑)。

奥田 店に入ってすぐ、大変なところに来てしまったと分かりました。その日は予約が少なくて休憩が長めだったので、裏でラジオをつけて大相撲の実況を聴いていました。そうしたら後藤シェフがやって来て「切れ!」と。
別の日、今度は漫画を持ち込んでいました。そうしたら「漫画なんて読むな!」。スポーツ新聞を読んでいたら「『日本経済新聞』しか読むな!」。どうしてかなと考えて、ああ、一切合切を捨てて「道」に入れと言っているんだなと一人で納得しました。

後藤 そういう素直さ、心構えは初めからよかった気がします。

奥田 そこからシェフの言うことの答えを自力で探し始めました。
後藤シェフは、例えば、予約が入っていなくても完璧に仕込みをされる。メニュー表にある食材がないなんてことは料理人の恥だと。僕たちが自分の立場の仕事を100%できていないととにかく怒る。皿に指紋がついていただけで、すぐ手が飛んできましたね(笑)。

後藤 いやあ、ここに来る途中も話したけど、ほとんど記憶がない。まだ35歳前後で若かったから、スイッチが入ると自分の世界に入り込んで、周りが見えなくなっていました。当時のスタッフを集めて、謝りたい気持ちですよ。

奥田 誤解のないよう読者の皆様にお伝えしておくと、当時の料理界というのは、たくさんの腕利きのシェフが皆、名を上げようと群雄割拠ぐんゆうかっきょしていた時代でした。シェフになればスパルタ教育が当たり前、勝ち上がってきた弟子だけ拾う。どこもそうだったんです。
でも、怒られるうちに気づきました。最初は「一所懸命」が肝腎だと。一所懸命って鎌倉時代にできた言葉らしくて、殿様から与えられた領地を命懸けで守るという意味。僕は自分の仕事を100%クリアすることに力を注ぎました。
ところが準備がいくら完璧でも、本番で失敗すればしこたま怒られました。「奥田にあの仕事はさせるな」と交代させられるんです。一所懸命の上には「真剣勝負」のステージがあるんですね。

後藤 料理は複数人でやるものですからね。一つでも気を抜いて誰かが失敗したら、全体が止まってしまう。つまりお客様に感動を与えられない、すべてなくなるということです。その緊張感で怒ってしまっていたんでしょうね。

奥田 「おまえの『すみません』は聞き飽きた!」「同じことを言うな」と怒鳴られ、またミスしてうっかり「すみません」と言ったら叩かれる。1日20回は怒られるから「二度としません」「明日は絶対に失敗しません」とか、いろいろな謝罪の言葉を毎日考えました。でも、ある時気がついたんです。失敗しなければいいだけだって。
シェフがいつになくいらっていて、「いいか、失敗したら殺すぞ」と言わんばかりの殺気を放っていることがありました。その時思ったのは、きょうは常に先手先手で動かなきゃダメだと。僕は高校でバドミントン部の主将でした。バドミントンって、シャトルを打つ時、次はこう返ってくるだろうと3通りくらい予想するんです。
オーダーが来始めたら試合開始で、次にシェフが欲しいのは網だ、氷だ、と先手を打って夢中で動きました。そうしたら最後に「きょう、よかったじゃないか」って、やっと笑ってくれたんです。
ああそうか、「夢中」になればいいんだ。一所懸命、真剣勝負、そして夢中になれば、おのずと先を読む。相手の考えていることを考えるようになる。こうすれば勝負に勝てると気づいたわけです。

アル・ケッチァーノオーナーシェフ

奥田政行

おくだ・まさゆき

昭和44年山形県生まれ。高校卒業後、東京で7年間修業し、26歳で鶴岡ワシントンホテル料理長就任。平成12年「アル・ケッチァーノ」を鶴岡市に開店。16年より「食の都庄内」親善大使。令和元年文化庁長官表彰受賞ほか受賞多数。近著に『パスタの新しいゆで方 ゆで論』(ラクア書店)『日本再生のレシピ』(共同通信社)など。