2017年6月号
特集
寧静致遠
対談
  • 京都大学名誉教授上田閑照
  • 大谷大学元講師岡村美穂子

鈴木大拙が
歩いた道

禅の文化を西洋に伝えたことで知られる仏教学者・鈴木大拙。大拙がアメリカに定住し大学での講義や講演活動を始めたのは79歳の時である。以来、88歳で帰国するまでこの活動は続いた。大拙はいかなる願を抱いて禅文化を西洋に伝えようとしたのだろうか。大拙に親炙した上田閑照氏、岡村美穂子氏の話をとおして、その求道者としての実像が見えてくる。

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女子高生の目で見た鈴木大拙

岡村 上田先生、お元気そうで何よりです。

上田 私も91歳になりましたが、おかげで何とかやっております。(岡村)美穂子さんとは、大拙先生とのご縁から一緒に本を書かせていただいたり、お話をさせていただいたりする機会も多いわけですが、その大拙先生も昨年(2016年)が没後50年でいらっしゃいました。

岡村 そうでしたね。

上田 ひと言で50年と言いましても、この間に世界ではありとあらゆる出来事が起きました。しかし、先生がもしいまもご健在でいらっしゃったなら、あらゆることが起きる現実社会にあって、どこまでもどこまでもスーッと歩んでいかれることでしょうね。その意味で本当に稀有な存在だと思います。

岡村 私が大拙先生と最初にお会いしたのは昭和26年、アメリカのハイスクールに通っていた頃でしたが、最初にコロンビア大学での講演を聴いた時、いきなり「きょうは時間と空間を超えた話をします」とおっしゃったんです。

上田 ああ、冒頭から。

岡村 時間と空間を超えたら一体そこに何があるのだろうというのが私の最初にぶつかった疑問でしたが、ちょっと間を置いて先生は「それは『仏』の話です」と続けられました。そこからお話の次元が変わっていったことが徐々に私にも分かってきたんですね。
「大拙先生はどんな時代にでもスーッと歩んでいかれる」という上田先生の言葉を伺いながら、ふとその時の時間と空間を超えるというお話のことを思い出しておりました。

上田 それにしても感心しますよ。高校生だった美穂子さんが、大拙先生の難しい言葉をよくぞキャッチされたものだと。

岡村 まあ多感な年頃だったこともありますが、それ以前にその頃の私は不平不満の最中だったんですね。親に対しても、自分自身に対しても。いろいろな問題や悩みを抱えている自分が嫌で、これ以上生きていたくないと思うくらいでした。そういう小さい自分しか見えない時に、時間と空間を超えるといった壮大な話をされるのですから「いや、これは何だろう」と思っちゃいますね(笑)。
私が大拙先生の話を聞いたのは、浄土真宗の開教師さんから「コロンビア大学に日本の偉い先生がお見えになっているから、その先生の話を聞きに行ってはどうですか」と勧めていただいたのがきっかけでした。

上田 大拙先生は禅の教えを世界に広めるために昭和24年に渡米し、9年間にわたってアメリカやイギリスの大学で講義や講演を続けられるわけですが、美穂子さんがお会いになったのはその頃のことですね。

岡村 はい。コロンビア大学での講演会場はギリシャ神殿のような大きな図書館でした。正面の横の扉が開いて、風呂敷包みを脇に抱えた小柄な先生がシャッシャッシャッと入ってこられる。演台の前に立ち、和綴じの本をゆっくりと風呂敷包みから出されるお姿を見て、私は先生に何の雑念もないように感じたんです。会場には大勢の人がいるのですが、それに惑わされることなく、実に静かでした。「無心で一心、一心で無心」と表現したらよいのか、動作がとても美しかったことをはっきりと覚えておりますね。先生が口を開かれない前から既に圧倒されました。
私は戦時中、アメリカのマンザナールという日本人収容所で暮らしていました。収容所といっても一万人ほどの日系人が生活する村のようなところですが、両親の勧めもあって日本舞踊を習っていたんです。お稽古の中に鳥を指さす動作があって、「あなたが指している指の先には鳥はいない」とよくお師匠さんから叱られていました。もちろん、子供ですから難しいことは何も分からないわけですが、体全体から感じ取るものと真実は一つでなきゃいけないということを、その頃から感じていたのかもしれませんね。

上田 大拙先生が歩かれる様子、壇に立たれている様子が頭に浮かびます。無心にそのものになり切っておられるお姿が、美穂子さんの心にも伝わったのだと思います。

京都大学名誉教授

上田閑照

うえだ・しずてる

大正15年東京生まれ。京都大学文学部卒業。京都大学名誉教授。著書に『上田閑照集』『鈴木大拙とは誰か』『西田幾多郎 人間の生涯ということ』(いずれも岩波書店)『禅仏教 根源的人間』(筑摩書房)など多数。

よく見てごらん 仏の手だぞ

上田 それで、美穂子さんは大拙先生に何年間師事なさったのですか。

岡村 15年間です。

上田 貴重な15年間でしたね。

岡村 ええ。自分では毎日コツコツやってきただけですからよく分かりませんでしたが、改めて振り返ると本当に貴重な時間をいただきました。
私、とにかく恐れを知らない生意気盛りだったものですから、初めて講演をお聞きした後、先生が宿泊されていたコロンビア大学の附属のアパートのようなところにお話をしに行くようになりました。そして、日頃の不満や悩みを素直に先生にぶつけたんです。先生はソファーに寄りかかり「なあ、なあ」と頷きながら、嫌な顔一つせずに聞いてくださいました。「あなたの態度は間違っている」などということは全くおっしゃらない。
そのうちに、「美穂子さん、あなたの手を出してごらん」と言われるんです。出しますと、私の手を撫でながら「綺麗な手じゃないか。よく見てごらん。仏の手だぞ」と涙を浮かべていらっしゃるんですね。しかし、私は自分の手がどうして仏の手なのか、答えが繋がりません。それで翌日も出掛けていって挨拶もしないまま「先生、あれはどういう意味ですか」と質問したんです(笑)。

上田 大拙先生はどのように答えられたのですか。

岡村 「あなたは自分の手だと思っているが、あなたがつくったのか」と質問されました。「そうではありません」と答えると「あなたの親がつくったのか。親の親がつくったのか」と矢継ぎ早に投げ掛けられる。そして最後には、無言のままご自身の手を空中で自由に躍らせられるんです。言葉には限界があることを知っていらっしゃって、理屈を超えた世界があることをこのような形で教えてくださったんです。
いま思うと、曾孫みたいな私のような人間とよく付き合ってくださったものだと思います。さぞかしご迷惑だったことでしょうが、これも修行と思われていたのでしょうか(笑)。

上田 いや、そこは普通の少女にはないマインドを感じられていたのでしょう。それは年齢は関係ありません。お聞きしていると、美穂子さんは「大拙先生に何かを聞いてみたい、何かを得たい」という強い気持ちをお持ちになっていた。その求める心がなかったら、大拙先生の心には何も伝わらないし、ご縁が深まることもなかったでしょうね。

岡村 幸いタイプライターができましたものですから、2年ほど先生のお手伝いをさせていただいているうちに、母がニューヨークに小さなビルを手に入れまして、先生を2階にお招きすることになりました。先生のお部屋の隣には私と妹が住んで、何かあれば行けるようにしたんです。
先生が88歳で日本に帰られる時、私も大学を中退して日本にお供することにしました。その後、昭和41年に95と10か月で亡くなられるまで先生にお仕えさせていただけたことは、本当に得難い幸せなことです。私は坐禅の修行をしたことはありませんが、大拙先生のお側にいること自体が坐禅ではなかったかと思うことがあります。

大谷大学元講師

岡村美穂子

おかむら・みほこ

昭和10年アメリカ・ロサンゼルス生まれ。ハンター・カレッジ、コロンビア大学に学ぶ。『ザ・イースタン・ブディスト』編集員、大谷大学講師などを歴任。著書に『大拙の風景  鈴木大拙とは誰か』『思い出の小箱から 鈴木大拙のこと』(ともに燈影撰書)など。