2017年6月号
特集
寧静致知
特別講話
  • 北里大学特別栄誉教授大村 智
私が歩んできた道

夢を持って
不動心で
生ききる

寧静致遠──。
遥か遠くにある目的地も、誠実で地道な努力の積み重ねにより到達できるという先人の教えである。夜間教師から研究者に転身、一躍ノーベル賞学者となった大村 智氏は、まさしくこの言葉の神髄を体現する人生を歩んできたと言えよう。本年1月、弊社主催の「新春特別講演会」にてお話しいただいたその一途一心の足跡を、ここにご紹介する。

この記事は約21分でお読みいただけます

世の中で一番大事なことは人のためになることだ

本日は、このようにたくさんの方々の前でお話をさせていただきますことを、大変光栄に存じております。

私は『致知』を長年愛読しており、私の生き方はこの雑誌の影響を色濃く受けていると思っております。そんなご縁で、藤尾社長から講演のご依頼をいただきましたけれども、未熟者の私が人間学を説くのはちょっと荷が重く、まぁ「私が歩んできた道」ぐらいならお話しできるだろうということで、本日ここに立たせていただくことになりました。

私は大学を卒業して都立高校の教員になりましたが、28歳の時に発心して研究の道を歩むことにいたしました。「おまえの経歴で研究者になってもあまり将来性がない。このまま教師を続けて将来は校長にでもなったほうがいい」というのが、私の周りの圧倒的多数の方々の意見でした。そんな私が今日までどのように歩んできたのか。生い立ちから順番に振り返ってまいりたいと思います。

私は1935年、山梨県の農家に生まれました。詩人の大岡信先生は「眺望は人を養う」と説いておられますが、私が生まれたところは非常に風光明媚であり、また神を敬いご先祖を崇める敬神崇祖の精神も根づいており、そのような素晴らしい風土に育まれて幼少期を過ごしました。

子供の頃、最も影響を受けたのが、農作業で忙しい両親の代わりに10歳まで面倒を見てくれた祖母でした。私はこの祖母から「智、世の中で一番大事なことは、人のためになることだ」と繰り返し、繰り返し言い聞かされて育ったのであります。

父は村の顔役として毎日忙しく飛び回り、母は終戦まで小学校の教員をやっておりましたが、私はこの両親から勉強をするように言われたことがありません。なぜなら、私が勉強をすると農作業を手伝わせることができなくなるからです。

農繁期になりますと、暗いうちから起こされて両親と一緒に野良仕事をし、近所の仲間がゾロゾロと家を出てくる頃にようやく解放されて学校へ行きました。父は私に農業を継がせ、多少なりとも村のお役に立つ人間にしたかったのでしょう。私に農作業を徹底的に教え込むわけです。おかげで中学3年の頃には、馬の背中に大きな俵を括りつけることもできるようになっていましたが、これは村の青年でもなかなかできないもので、随分驚かれたものです。

とにかく農作業は厳しく、少年の小さな体でそれをこなすのは大変なことでした。しかしコンラート・ローレンツというノーベル賞学者が「子供の時に肉体的に辛い経験を与えないと、大人になって人間的に不幸だ」と言っているように、厳しい農作業のおかげで徹底的に体力も精神力も鍛えられ、私はとても幸せだったと思います。

いずれ自分はお百姓をやるんだと考え、あまり勉強はしなかった私を、中学校の恩師である鈴木勝枝先生は随分可愛がってくださいました。農繁期に学校を休んで田んぼで働いていると、ぬかるんだ畦道を歩いて来て「きょうは学校でこんなことがあったよ」と教えてくださったり、「将来は村長になるのに、こんな字を書いていたらみっともないよ」と教えてくださったり、いつも気に掛けてくださっていました。

私は後に研究者となり世界中を飛び回るようになっても、この先生にだけはハガキを書こうと心に決め、現地で絵ハガキを買っては近況を報告しておりました。お亡くなりになる前に少し認知症の気があったらしいのですが、私の名前は最後まで覚えておられ、友達から羨ましがられたものです。

北里大学特別栄誉教授

大村 智

おおむら・さとし

昭和10年山梨県生まれ。33年山梨大学学芸学部卒業。38年東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了。40年北里研究所入所。米国ウエスレーヤン大学客員教授を経て、50年北里大学薬学部教授。㈳北里研究所監事、同副所長等を経て、平成2年北里研究所理事・所長。19年北里大学名誉教授。20年㈳北里研究所と㈻北里学園との統合により㈻北里研究所名誉理事長(現在は特別栄誉教授)。27年ノーベル生理学・医学賞受賞。著書に『人をつくる言葉』『人間の旬』(ともに毎日新聞出版)『自然が答えを持っている』(潮出版社)など。