2016年4月号
特集
夷険一節
インタビュー②
  • 花仙庵 仙仁温泉 岩の湯社長金井辰巳

飽くなき理想土の
追求が山間の
温泉宿を変えた

長野県須坂市の山中にある静かな一軒宿に、全国からの宿泊客が絶えることがない。花仙庵 仙仁温泉 岩の湯である。社長の金井辰巳氏は、寂れた温泉宿をどのようにして稼働率100㌫の人気旅館に改革していったのだろうか。その歩みをお話しいただいた。

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日常生活では味わえないよりよい〝異日常性〟を求めて

──先ほど旅館内をご案内いただきましたが、随分と広いですね。

建物の坪数でいえば1,100坪ほどでしょうか。山の傾斜地に建っているため、風呂や食事処に行くには迷路のような階段を上ったり下りたりしなくてはいけないし、お客様専用のエレベーターも取り付けてはいません。周囲にはこれといった名所旧跡もない、まさに山の中の一軒宿なのですが、ありがたいことに全国から、多くのお客様が来てくださいます。
地の利は決してよくないのに稼働率100%、リピート率70%を誇る人気の宿だと伺っています。

父が始めた57年前は本当に小さなボロボロの旅館でした。それを平成元年に全面的にリニューアルしました(現在は18室)。長野はいまのように新幹線も高速道路も整備されていませんでしたから、冬場のオフシーズンでも空っぽにならず、しかも旅館らしいサービスが提供できる客数はどのくらいが適当なのかをよく考えて部屋数を決めたんです。その頃は、春夏秋冬をとおしてフル回転の状態が続くようになるなど考えもしませんでしたけど。

──予約は何か月先まで埋まっているのですか。

月によって違いますが、紅葉のシーズンとなりますと、その年の秋に翌年の秋の予約はいっぱいになります。宿泊されたお客様が雰囲気にすっかり魅せられて、その場で翌年の予約をされるケースも少なくありません。

──人気の要因は、どこにあるとお考えですか。

お客様が求められているのは、料理が美味しいとか施設が立派だとか、そういうものではなくなってきていると私は見ています。もちろん、それは旅館をやる上での大前提ではあるのですが、お客様の思いはもう少し違うところにある気がしているんです。
美味しいものを食べて立派な施設に泊まる。これだけだと、どうしても日常の延長になってしまいますね。しかし、例えばご家族であれば親子の絆が深まる、ご夫婦であれば新鮮な出会いを感じる、といったように、普段当たり前のように接している身近な人の新しい一面を発見できる場になったらどうでしょう? 私たちが追求している世界はそこなんです。これを漢字で理想土(リゾート)と表しています。「情けと癒しの旅文化の創造」が私たちのミッションです。

──身近にある理想の世界を体感してほしいという思いを込められたのですね。

その一つとして館内の環境づくり、演出には随分心を配っています。当旅館ならではの洞窟風呂はその代表ですが、他にも例えば、廊下の一部はそれまであった壁やガラス張りの部分を取り外し、外の自然と融合できる空間にしました。暖房の効いた廊下の先にある自動ドアが開くと、そこには屋根と廊下しかない豊かな雪景色が広がり、その空間を抜けて次の自動ドアを進むと、再び暖かい廊下が待っているというイメージです。
紅葉のシーズンですと、枯れ葉が舞い落ちます。それを踏んで自然の感触を味わっていただく、遠くの絶景ではなく身近な環境です。
このような廊下を随所に作ったのは、現代人が便利さや快適さを追求する一方で、忘れてしまっているものがあるように思ったからです。私たちは不足、不便、不揃いという不の部分にこそ、便利さに慣れた現代人の心の奥底にある潜在ニーズがあると考え、それらを最高に生かすことをとても大事にしています。つまり、ただ不をそのままにするのではなく、それらをセンスよく磨き上げる。

──不便さを磨き上げる?

ええ。例えば、外の廊下には厚みのある本物の原石を敷き詰め、その下には温泉の管を引いて融雪し、お客様が滑らないよう安全にしています。外庭は動きを持たせるために山の沢水を引いて水の音色を楽しんでいただけるようにしました。ソフト面では、例えば冬の真っ白な雪のシーズンでも、昔ながらのどてらをアレンジしたオリジナルの防寒着を準備して、いつでも暖かくお部屋から外に出るのが楽しくなるよう工夫させていただいています。

花仙庵 仙仁温泉 岩の湯社長

金井辰巳

かない・たつみ

昭和27年群馬県生まれ。大学卒業後、簿記学校、料理専門学校を経て家業の旅館を継ぐ。平成元年「花仙庵 仙仁温泉 岩の湯」としてリニューアルオープン。全国から注目を集める人気旅館に育て上げる。日本秘湯を守る会会員、長野県中小企業家同友会会員。