2025年4月号
特集
人間における運の研究
対談
  • 今治.夢スポーツ会長岡田武史
  • 福岡ソフトバンクホークス監督小久保裕紀

勝運を掴む

サッカーと野球。活動のフィールドは異なるものの、共に日本代表監督として世界の大舞台で戦った岡田武史氏と小久保裕紀氏。得難い体験を糧にいま、それぞれFC今治、福岡ソフトバンクホークスで目覚ましい実績を上げている2人は、いかにして己の運命と組織の可能性を切り拓いてきたのだろうか。名将が語り合うチームづくり、そして勝運の掴み方。

この記事は約27分でお読みいただけます

自分で判断できる選手を育てるために

小久保 先日、岡田さんのインタビューをテレビで拝見しました。
その中で、監督経験のないところからいきなり日本代表監督を務められた時のお話をなさっていましたね。

岡田 そうでしたか。取材を受けたのはだいぶ前でしたから、しゃべった内容を詳しくは覚えていないんですよ(笑)。

小久保 僕も同じように、最初に務めたのが日本代表監督だったのでとても興味があったのですが、岡田さんはその後、Jリーグや中国のチームで監督を歴任されましたね。そして2014年にいまのFC今治いまばりの代表に就任されて、サッカーチームの経営を通じた地方創生や、学校教育にも取り組んでおられます。こういうキャリアを積むことは、最初から岡田さんの人生プランにあったのですか。

岡田 ないない(笑)。
少し振り返ってみると、33年前にJリーグが発足した時に、有名な外国人監督がたくさん指導に来たんですが、彼らから「どうして日本の選手はこんなに指示を仰ぎにくるんだ。自分で判断するのがサッカーだろ」と散々言われたんです。それで日本のサッカー界は大きく方向転換して、自分で判断できる選手の育成に努めてきました。ただ、それでもまだ根本的な解決には至っていないんです。
例えば、森保もりやすジャパンが最初にベネズエラと試合をした時、前半で4点も入れられてしまいました。ハーフタイムにロッカールームに戻っていく選手は皆下を向いて、目が泳いでいるんです。俺たちいったいどうしたらいいんだって。
一方、その年の11月のU17、17歳以下のワールドカップで、ブラジルは強豪のフランスに前半で二点取られてしまいました。するとハーフタイムに選手が全員グラウンドに飛び出してきて、手を振りかざして激論を始めたんです。そこには監督もコーチもいない。そして後半、彼らは奇跡の逆転をしました。この違いなんです。

小久保 日本と他国との差が浮き彫りになったわけですね。

岡田 どうしたらこのギャップを埋められるだろうかと考え続けている時に、強豪国スペインの有名なコーチから「スペインにはサッカーの型があるが、日本にはないのか?」と言われたんです。「スペインでは、まず原則という型を16歳までに十分落とし込んだ後で自由にするんだ」と。
日本はそれまで、自分で判断できる選手を育てなければと考えて、16歳まで自由にやらせて、高校から戦術を教え始めていました。しかし、スペインはまったく逆だったんです。僕は日本人もそういう育成をしたら自立した選手がもっと育つんじゃないかと考えて、岡田メソッドというのをつくり上げたんです。
その岡田メソッドを元に一からチームを育ててみたいと考えていたら、会社を経営している先輩がサッカー好きで、四国リーグのアマチュアチームを持っていましてね。「ぜひうちでやれ。ただし、株式を51%取得してからにしろ」と言われて株式を買ったら、オーナーになってしまった。だから自分の人生なんて行き当たりばったりで、計画が全くないんです(笑)。

小久保 そうだったんですか。
僕も岡田さんと同じ立場から監督を始めて、いまは一つの球団の監督じゃないですか。でもこの先のことが全然見えていなくて、岡田さんはどうだったんだろうかと、すごく興味があったんです。

岡田 僕は日本代表監督を2回務めて、Jリーグでは優勝を果たすこともできました。その後も同じJリーグの他チームからオファーをたくさんもらったんだけど、もうそんなに気乗りしなかったところへ中国からオファーが来て、面白そうだなと。そんなふうに計画なんかしなくて、とにかく面白そうな道を選び続けてきた人生でしたね。

今治.夢スポーツ会長

岡田武史

おかだ・たけし

昭和31年大阪府生まれ。55年早稲田大学政治経済学部を卒業後、古河電気工業サッカー部に入団し、日本代表に選出。引退後は日本代表監督として平成9年W杯フランス大会で日本初の本選出場、22年W杯南アフリカ大会でベスト16。他にコンサドーレ札幌、横浜F・マリノス、中国スーパーリーグの杭州緑城で監督を歴任。26年FC今治オーナーに就任。著書に『岡田メソッド』(英治出版)、共著に『勝負哲学』(サンマーク出版)など。

あの時に比べたら重圧をはね除けた開幕戦

岡田 それにしても、福岡ソフトバンクホークスは本当に強いですね。いつも勝っているイメージがありますよ。

小久保 ただ、去年(2024年)のリーグ優勝は4年ぶりでしたからね。

岡田 監督就任1年目で優勝というのは見事だと思いますよ。

小久保 おかげさまで4月からずっと首位をキープしてシーズンを終えることができましたけど、一番印象に残っているのは開幕戦でした。何しろプロ野球一軍監督の一戦目って、一生に一回しかありませんからね。とにかく早く余計な緊張感から解放されて、自分たちの野球に専念したいという中で対戦したのが、前の年まで3連覇していたオリックス・バファローズだったんです。結果的に勝つことができましたけど、1年を通じてあんなに緊張したゲームはありませんでした。それを乗り切ることができたのは、日本代表監督を務めた経験があったからです。
僕は日本代表監督の時に臨んだ2015年のプレミア12で負けて3位に終わり、「史上最弱侍ジャパン」と大バッシングを受けました。そうして2017年にワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に臨んだのですが、あの時は初戦の開始20分前からグワーッとつかまれるような胃痛が始まりましてね。それからしばらく食事ものどを通らなくなって、たった1日半で激やせしました。日本代表監督というのはそこまですさまじい重圧がかかるんですね。

岡田 よく分かります。僕の時は、もし負けたら日本に帰れないとまで思い詰めていました。

小久保 その逃げられない状況の中で、どっちに転ぼうと前へ進むしかないんだと開き直ることができたんです。『致知』でもお馴染なじみだった村上和雄先生がおっしゃる遺伝子のスイッチがオンになる瞬間があって、そこから本当に怖いものがなくなった。結果的にWBCは4位に終わりましたけど、自分たちが戦う姿から何かが伝わったのか、プレミア12の時とは打って変わって、たくさんの方から「感動をありがとう」という温かい声をいただいたんです。
「あの時に比べたら」という思いがあるから、開幕戦の緊張も乗り越え、優勝を果たすことができたんだと思います。
ただ、残念ながら日本シリーズでは横浜DeNAベイスターズに敗れてしまいました。

岡田 最初に2連勝した時には、そのまま優勝するだろうと思いましたけどね。

小久保 ちょっと情報を詰め込み過ぎたところがありました。シーズン中は、何か違和感を覚えたら臨機応変にピッチャーを変えたりしていたんですが、あの日本シリーズでは、こういう状況になったらこうするとか、念入りにシミュレーションし過ぎてそれに縛られてしまったところがありました。
やっぱり勝負事は最後に勝ち切らないとダメだ、ということを痛感したオフシーズンでしたね。

福岡ソフトバンクホークス監督

小久保裕紀

こくぼ・ひろき

昭和46年和歌山県生まれ。平成6年青山学院大学卒業後、福岡ダイエーホークスに入団。15年読売ジャイアンツにトレード。19年古巣の福岡ソフトバンクホークスに移籍。24年現役引退。25年侍ジャパン代表監督に就任。29年3月まで務め、WBCベスト4。令和2年指導者としてホークスに復帰。6年より一軍監督。著書に『開き直る権利』(朝日新聞出版)、共著に『結果を出す二軍の教え』(KADOKAWA)など。