約5,000点の世界の製菓道具を展示するエーデルワイスミュージアムにて
2017年7月号
特集
師と弟子
対談
  • エーデルワイス会長比屋根 毅
  • ムッシュマキノオーナーシェフ牧野眞一

我ら菓子づくりの道を極めん

日本のスイーツ業界の父と謳われる比屋根 毅氏。氏のもとで腕を磨き、独立を果たした菓子職人は100人にも上り、一流の技術で業界を牽引しているという。関西で人気洋菓子店を営む牧野眞一氏は、その筆頭に名を連ねる1人。比屋根氏は何を伝え、牧野氏は何を摑んだのか。師と弟子が語り合う、菓子づくりへの想い、そして、人生──

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「うちへ来てしっかり勉強したらどうだ」

牧野 比屋根会長とこうして改まって語り合うことは滅多にないから、少々緊張しています。私はお菓子のことしか知りませんから、失礼なことを言うかもしれませんので……(笑)。

比屋根 アハハ。そんなに肩肘を張らなくても、昔話でもするつもりで……。君がエーデルワイスに入社してきたのは、何歳の頃だったかな。

牧野 23歳でした。その頃は会長もまだ現役でバリバリやっていらっしゃって、こうして親しく言葉を交わすこともかないませんでしたけれども。

比屋根 だけど、あなたもいまでは立派なオーナーシェフで、あなたの立ち上げたムッシュマキノは、もう関西で知らない人がいない一流洋菓子店ですよ。僕のところから独立したのは確か……。


牧野 42歳の時です。独立させていただいて、もう20年以上になりますけど、いまでもこうしてお声を掛けていただけるから幸せです。私は、いまだに会長のところの社員のつもりでいますから。

比屋根 独立していった人から、僕の会社を我が家みたいに思ってもらえるのは嬉しい限りですよ。

牧野 会長に初めてお目にかかった頃のことは、いまでもよく覚えています。会長は洋菓子のコンテストでも10回くらい連続優勝なさっていた第一人者でしょう。それほどの方から、いきなり声を掛けられたのでビックリしました。何で私に? って(笑)。

比屋根 コンテストや講習会の会場で、目の鋭い、すごくいい感性を持った子がおるなというのが僕の第一印象でね。こう言ってはいまのあなたには失礼だけど、つくっているものはまだ大したことはなかった。
けれどもセンスというのかな、なかなか非凡なものが随所に垣間見えて、この子はうまく育てたら大変な技術者になるなと思ったんです。それで「うちへ来てしっかり勉強したらどうだ」と声を掛けたら、すぐ飛んできたね。

牧野 その時は他のお店でお世話になっていましたけど、迷いはありませんでした。会長の持っていらっしゃるものをすべて吸収したいと思いましたから。
私は小さい頃から家庭に恵まれず、衣食住に飢えていたので、とにかく早く学校を出て食べ物屋さんに入りたいと願っていました。それでパン屋さんもいろいろ考えたんですけど、ケーキはあの当時まだ珍しくて、貧乏人の自分でも職人になれば食べられるんじゃないかなと。洋菓子の世界に入ったきっかけは、ただそれだけでしたけど、比屋根会長と出会ったことで、私の人生は一変しました。

エーデルワイス会長

比屋根 毅

ひやね・つよし

昭和12年沖縄県生まれ。41年兵庫県尼崎市でエーデルワイスを創業し、平成14年から会長。現在はアンテノール、ル ビアン、ヴィタメールなど7つのブランドを展開。国内外のコンテスト受賞歴多数。洋菓子業界の発展に尽くし、スイーツ業界の父といわれる。旭日双光章、レオポルド2世勲章コマンドール章(ベルギー王国)受章、石垣市民栄誉賞受賞。兵庫県洋菓子協会会長、日本洋菓子協会連合会副会長などを歴任。現在、尼崎商工会議所副会頭を務める。著書に『人生無一事』(致知出版社)など。

大切なのは、素直さと根気、そして「こん畜生!」の思い

牧野 だけど、比屋根会長のところは、それまでの職場とは全然環境が違っていましたね。その当時からエーデルワイスというのは一つの軍団で、経験別のコンテストでも全クラスで優勝をさらっていたでしょう。

比屋根 何度も完全制覇しました。僕は十連勝した後、もうこれ以上出ないでくれと言われたものだから、今度は後を託したうちの子たちがずっと優勝を続けていた。その頃の弟子たちがいま、業界のトップに立って頑張ってくれているんです。

牧野 私もそこそこ自信があって、あの軍団を打ち破るのは俺しかおらんやろ、と思って励んでいました(笑)。でも実際にエーデルワイスに入ってみると、各クラスに10人ずつ、全部で30人くらい腕のいい若手が鎬を削っていて、その中で戦っていくわけですから大変でした。

比屋根 一流揃いだから、いいと思う作品をつくってもそれほど目立たない。ショックを受けて、もっと勉強しなければあかんなと気づいたろうね。

牧野 いまでも鮮明に覚えていますが、いくらいい作品をつくっても、会長にポンと潰されてしまう。何も言われずにね(笑)。すぐにつくり直して、今度は大丈夫やろと思って持っていくんだけど、また潰される。よそに持っていったら十分通用するレベルでしたけど、会長は許してくださいませんでした。

比屋根 コンテストに出るには、まず社内で勝ち残らなければいかんから、深刻だったろうね。

牧野 後で分かるんですけど、去年つくったものは今年は絶対につくったらあかん、二番煎じはダメだというのが会長の持論ですよね。人の真似をするな、オリジナリティがないとあかん、仮にそれで賞を逃すようなことがあっても構わん。これまでの歴史や伝統が途絶えてもいいから、新しいものをつくりなさいと。いままでつくり上げてきたものを全部捨てて、全く違うところからスタートしなければいけないわけですから、あれは強烈でした。

比屋根 可哀想だという思いは当然ある。しかしもっともっと伸びてほしいから、中途半端なレベルで認めるわけにはいかない。そこで泣いて辞める者もたくさんおったけどね。

牧野 いましたねぇ。

比屋根 本人にしてみたら、丹精を込めてつくり上げた絶対の自信作が、ひと言の評価もなくパッと潰されるんだから、たまらないだろうな。

牧野 1日、2日でできるものじゃありませんからね。毎日仕事もしっかりこなしながら、睡眠時間を2、3時間くらいまで削って、大体40日間くらいかけてつくり上げていくわけでしょう。やっとできあがっても一瞬でバーンだから、「ええっ!」と(笑)。私も若い頃はショックでした。
それでも私が辞めなかったのは、そこでまたやり直すことで、自分をもっと伸ばせることを学ばせていただいたからです。そもそも、自分はもう会長のことを師と仰いでいるわけですから、その師から「ダメや!」と言われたら、やっぱりそれはダメなんですわ。

比屋根 そういう素直さがないと、人間伸びないね。素直さと根気、そして「こん畜生!」という思いが自分を高めるんじゃないかな。これでいいやと妥協したら、もうそこで終わりですよ。
逆に、ダメ出しされても「こん畜生!」と発憤して、魂のこもった作品をつくり上げたら、僕はものすごく褒めてあげる。やれるじゃないかと。これで自信を持って、しかし驕らずに、もっともっと頑張りなさいと。
そういうことを繰り返してコンテストで日本一になる頃には、もう親子以上に深い繋がりができているから、お互いに肩を抱き合い、涙を流しながら喜びを分かち合えるんです。あの苦労があったから日本一になれたんやでと。その度に、やっぱり厳しく教えてきてよかったなぁと実感するんですよ。

ムッシュマキノオーナーシェフ

牧野眞一

まきの・しんいち

昭和26年愛媛県生まれ。43年に洋菓子の世界に入り、ドイツでの修業を経て、49年にエーデルワイス入社。アンテノールのパティシエ、ヴィタメールのグランドシェフとして活躍。平成4年「世界洋菓子コンクール」に日本代表として出場し、優勝を果たす。8年に独立し、大阪府豊中市に「ムッシュマキノ」をオープン。15年ムッシュマキノ向丘本店オープン、現在に至る。