2017年7月号
特集
師と弟子
対談
  • 作家童門冬二
  • 京都大学名誉教授中西輝政

歴史に学ぶ
師と弟子の系譜

かつて志ある日本の若者たちは人生や学問の師を求めて全国を旅した。そうやって巡り合った師と弟子たちの魂の呼応が、時に我が国の歴史を大きく変革させたのも事実である。作家の童門冬二氏と京都大学名誉教授の中西輝政氏には、それぞれの師の思い出を交えながら、歴史上の人物たちの師弟関係について縦横に語り合っていただいた。

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ひたむきな生き方が師と出会う機縁になる

中西 童門先生とお会いするのは10数年ぶりということになりますが、きょうは「師と弟子」というテーマで歴史小説の大家である先生のご高説を賜れることを楽しみにしてまいりました。

童門 いや、僕はやがて90歳です。よろしくお導きください。

中西 先生は歴史上の人物の師弟関係についても幅広く研究なさっているわけですが、人生における師をどのように考えていらっしゃいますか。

童門 僕は師をいろいろな角度で捉える中で一番印象に残ったのは、大先輩・吉川英治さんの「我以外皆我が師」という言葉でした。これは何かを学ぼうとする場合、大事な姿勢だと思います。また後でお話しすることになると思いますが、吉田松陰も「学べる人から、いいとこ取りをしろ」と言っています。他に欠点があったとしても、どこかいいところがあったらそれを学び取れということですね。この言葉は僕自身も実行して、何回か救われた経験があります。
きょうもこの会場に来るのにタクシーの運転手さんとずっと話していましたが、随分勉強しましたよ。こちらにニーズさえあれば誰からでも学び取れるんですね。

中西 いまのニーズというお言葉は、具体的な師を求める「心の準備」という言い方もできるかと思います。本当の師は計らって得られるものではありません。自分の心が何か一つのものにひたむきになる時、「この人だ」という人物に巡り合えるものなのでしょうね。
あるいは「学びたい」という強い思いが機縁となって師と出会うこともあるかもしれません。最近、渡部昇一先生の絶筆となった『致知』6月号「20代をどう生きるか」を読ませていただいて、そのことを特に感じたんです。
渡部先生はその記事で、山形の高校時代の恩師・佐藤順太先生について述べられています。渡部先生は少年期に佐藤先生のお宅を訪ねた時、天井まで本で埋め尽くされた書斎でゆったりとくつろぐ佐藤先生の姿をご覧になって痺れるような感動を抱かれるんです。そして「自分もこういう老人になりたい」と強く期すものを持たれる。以来、渡部先生は86歳で亡くなるまで、佐藤先生をずっと師と仰ぎ見られるわけです。少年の時の尊敬の念が終生続くのですから、大変な出会いだったことが窺えます。
佐藤先生から可愛がられた生徒は他に何人もいたでしょうが、多くは後年話題が及ぶと「そういえばそういう先生もいたな」という程度で、渡部先生ほど感動した生徒は誰もいなかったとのことです。佐藤先生との出会いがなかったら、渡部先生が「知の巨人」と呼ばれることもなかったかもしれません。出会いというものは本当に不思議だと思います。

童門 そのとおりですね。

中西 思うに、佐藤先生と出会う前から何となく「こういう人になりたい」というお気持ちが渡部先生の中にあって、それは師と出会うための心の準備だったとも言えると思います。同じ先生と出会っていても、他の生徒とは捉え方が全く違っていたのは、劇的な何かがそこに働いていたからでしょう。
聞くところによると、渡部先生の幼少期、ご家庭は決して裕福ではなかったそうですね。しかし、お父さまは近所の書店に頼んで本をツケで買えるようにされた。そのおかげで先生は『少年講談』や『キング』、偉人伝など気に入った本を心置きなく読むことができたのですが、佐藤先生の書斎を見て衝撃を受けられたのは、そういう下地があったのかもしれません。

童門 いろいろな巡り合いの中で素晴らしい師を得られた渡部先生は本当に幸せな方でしたね。

作家

童門冬二

どうもん・ふゆじ

昭和2年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長を歴任後、54年に退職。本格的な作家活動に入る。第43回芥川賞候補。平成11年勲三等瑞宝章を受章。著書は代表作の『小説上杉鷹山』(学陽書房)をはじめ、『人生を励ます太宰治の言葉』『楠木正成』『水戸光圀』(いずれも致知出版社)『歴史に学ぶ成功の本質』(ロングセラーズ)『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(青春出版社)など多数。

人生を決定づける師の存在

中西 歴史とは、数々の出会いによって築かれていくものなのでしょうが、私が日本史上最も劇的な「師と弟子の出会い」と思うのは、法然と弟子の親鸞との出会いですね。2人とも日本仏教史上、大きな位置を占める人物ですが、以心伝心と申しますか、出会った瞬間、お互いの心を理解し合えたと言われています。しかもその後、親鸞は長年、法然に指導を受けたわけではなく、2人ともすぐに流罪になって離ればなれになり、二度と会うことはなかった。
親鸞は法然に出会うまでの間、若い頃から比叡山で修行し、解脱、往生の道を探究して悩み苦しんできましたから、それだけ求める心が強かった。だからこそ、同じく道を求めてきた法然と出会った時、一瞬にして心が結晶するようなものを感じ、そこに永遠の師弟の絆が生まれたと言われています。

童門 その意味では、賀茂真淵と本居宣長の出会いもそうですね。宣長は松坂での真淵との人生でたった1回、僅か数時間の出会いが機縁となって、歴史的名著『古事記伝』を書き上げる。
僕はよく例に引くんだけれども、プラトンは『饗宴』の中で、男女の愛を1本の骨が分かれて時を経て一緒になるという喩えで表現しています。だけどこれは男女だけではなく、法然と親鸞にも、真淵と宣長にも当てはまることだと思います。分かれた骨が一つになっていく様には一種の怖さすら感じますね。どこかでそういう約束が成り立っていて、出会うべくして出会っているというのか……。

中西 そのように考えると、師との出会いは時間の長短に関係なく、たとえ一瞬の出会いでも人生を決定づけるものなのでしょうね。私たちは皆、父母によって命を授けられますが、自分というものを本当の意味で築いてくれるのは、やはり師の存在なのだと思います。

童門 「これでいい」なんていうパーフェクトな人間はいないわけで、誰でも欠けている部分はある。それを補ってくれるのが師なんです。よく人生を起承転結で括ったりしますが、僕は至らない人間だから起承転転でいつも転がりっ放し(笑)。だけど、「人生はこういうものだ」などという「結」を持ったら師に対するニーズもなくなるし、不遜な人間になってしまうような気がしています。

中西 人生も仕事も「自分のいまの考えややり方でいいんだ」という考えを持つ人は、本当の意味で師を求めようとはしていないのですね。「これでいいのか」「このままではいけない」という自分への問い掛けを持つからこそ向上心が生まれ、師を求めざるを得なくなるのだと思います。
人は一生、師を必要とするものですが、特に20代から30代における師との出会いは大きな意味を持つように思うんです。若者の中にある生命力、成長力は時に苦悩を伴います。青春の悩みとはそういうことなのでしょうが、それも師に出会う準備なのでしょう。

童門 そのとおりですね。

中西 親鸞が法然に出会ったのは20代ですし、吉田松陰の弟子たちが松陰に親炙したのはまだ10代の頃でした。松陰もそうですが、あの頃の志ある若者たちは全国を旅しながら師を求め続けている。

童門 おっしゃるように江戸時代、学問を志す若者は、ほとんど交通機関や情報機関が発達していないにもかかわらず、テクテクと遠い道を歩いて行きました。それは「あの土地に行けば、あの先生がいらっしゃる。ぜひ学びたい。人格に接したい」という純粋な動機によるものでした。しかし、だからといって彼らは師に対して自分を丸投げにするようなことはしません。必ず主体性を持っていて「この部分をあの先生に補っていただこう」と考えるんですね。
松陰の場合も、全国を旅した主な目的は日本防衛のための砲台の調査でしたが、遊学中には佐久間象山をはじめとする学問の師を訪ね歩いています。九州から東北まで、当時の日本人であれほど歩き回った人はまずいないでしょう。

京都大学名誉教授

中西輝政

なかにし・てるまさ

昭和22年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院修了。京都大学助手、三重大学助教授、米国スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て、京都大学大学院教授。平成24年退官。専攻は国際政治学、国際関係史、文明史。平成2年石橋湛山賞。9年毎日出版文化賞、山本七平賞。14年正論大賞。著書に『国民の覚悟』『賢国への道』(ともに致知出版社)『大英帝国衰亡史』(PHP研究所)など。