2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
我が心の稲盛和夫⑨
  • 日本航空元会長補佐専務執行役員大田嘉仁

確固たる人間観、
死生観を持つ

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込み上げてきた心からの感謝

稲盛さんの訃報を受け取った時、込み上げてきたのは、悲しみというより、「ありがとうございました」という心からの感謝でした。

私は稲盛さんの秘書や側近として30年近く仕事をし、日本航空再建では、主に意識改革担当として3年間ご一緒させていただきました。社会人の大半の時間を稲盛さんと過ごすことができ、恵まれている、本当に有り難いというのが率直な思いです。

稲盛さんは常々「魂は不滅だ」「私たちはソウルメイトだ」とおっしゃっていました。ですから、お別れの会があると言われても、お別れなんてしたくない、いつも稲盛さんの魂と一緒にいる、という気がしています。

コロナになり、ここ数年は直接お会いする機会はありませんでしたが、今年は三度ほど電話で近況をお伝えさせていただきました。稲盛さんは、「おお、なんや」「そうか、頑張れ」という感じで、何も変わらない。声を聞いているだけで不思議と心が落ち着きました。稲盛さんご自身もさらに心が澄み切っておられるという印象を受けました。

私にとって、最晩年の稲盛さんと直接お会いできなかったことは、ある意味、よいことだったのかもしれません。いまも私の脳裏にイメージされるのは、行革で成果を上げ、KDDIを創業し、JALを再建されるなど、最も輝いていた頃の姿だからです。

先ほど、訃報に接して感謝の思いが込み上げてきたと言いましたが、いまではそれに加え、もう直接お話ができないという寂しさと、最も輝いていた時の稲盛さんと最も長い時間を過ごした人間として、その遺志を継ぎ、自分が学んだことをできるだけ多くの人に伝えなければならないという使命感も生まれてきました。

私が稲盛さんの「特命秘書」に命じられたのは、米国社費留学から帰国して間もない1991年、37歳の時でした。その頃、稲盛さんは第三次行革審(第三次臨時行政改革推進審議会)の「世界の中の日本」部会長に任命され、急遽きゅうきょ、秘書が必要となり、私に白羽の矢が立ったのです。

3年間の行革が終わった際、稲盛さんから「これからも俺の秘書として頑張ってほしい」と言われ、正式に秘書室に異動することになりました。

稲盛さんは重要な会議や懇親会等にも私を同席させてくださったのですが、その時に言われた「俺とおまえは一心同体でなければならない。周りの人はおまえを通じて俺を見るんだ」という言葉が、私の原点となりました。以後、どうすれば一心同体になれるだろうかと、その一挙手一投足から学ぶと共に、著書や講演録などを必死に勉強するようになったのです。

私は稲盛さんと同じ鹿児島市生まれで、お互いの実家は歩いて十分も離れておらず、小学校も同じです。不思議なご縁に感謝せずにはいられません。

日本航空元会長補佐専務執行役員

大田嘉仁

おおた・よしひと

昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年日本航空(JAL)会長補佐・専務執行役員に就任(25年退任)。27年京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任(30年退任)。現職は、MTG取締役会長、学校法人立命館評議員、鴻池運輸社外取締役、新日本科学顧問、日本産業推進機構特別顧問など。著書に『JALの奇跡』(致知出版社)がある。