2026年9月号
特集
めざすものを持つ
インタビュー①
  • かわむら会長川村賢壽

死に方は
選べなくても、
生き方は選べる

世界に誇る漁場・三陸を筆頭に、深い爪痕を残した東日本大震災。15年が過ぎたいまも、傷は癒えたとは言い難い。水産加工を生業とし、グループ会社を含め27あった拠点の9割を津波で流失した川村賢壽氏は、それでも地元・気仙沼に残り、半年で複数の工場を復旧。15年間で業績を震災前の水準に戻し、近隣の同業者を束ね世界に挑んでいる。氏が絶望の淵でめざしたものは何だったのか。

    この記事は約11分でお読みいただけます

    かわむら会長

    川村賢壽

    かわむら・けんじゅ

    昭和24年宮城県生まれ。仙台育英学園高等学校卒業後、東京の昆布問屋で修業。45年海産物加工業を開始。49年㈱川村商店設立(平成3年㈱かわむらへ社名変更)。昭和63年㈱加和喜フーズ代表取締役。平成19年冷水代表取締役。23年東日本大震災で経営する3社の施設設備の9割が流失。同年6月本社一部操業再開。24年気仙沼鹿折加工協同組合設立、理事長就任。

    築き上げたものを一瞬で押し流されて

    ──御社は、東日本大震災で壊滅的被害を受けられたそうですね。

    忘れもしません、15年前の3月11日14時46分。このせんぬまも大変な揺れに襲われました。急いですべての作業を止めさせて社員を帰し、私も少し離れた自宅へ車を飛ばしました。
    ただ、この辺はリアス式海岸ですからね。山と海が入り組んだ地形で、町をつなぐ道路が低い海側を通っている。そこに差し掛かった時、津波が来ました。前を走っている車があっという間にまれて、全部流されていくんですよ。
    すんでのところで車を停めました。それで助かったわけね。

    ──まさに間一髪で。

    運がよかった。あの震災で生き残ったのは、運ですよ。町は波に呑まれて、あの日はそこに雪が降ってね。とにかく寒い。この世の景色とは思えなかったな。何とか残った自宅に辿たどり着いて、次の日から社員の安否確認でした。

    ──被害はいかほどでしたか。

    私は生ワカメ・生コンブを主に扱う「かわむら」と、鮭やイクラを主に扱う「フーズ」、冷蔵庫の「冷水」の計3社を経営していましてね。社員は全体で270人ほど。電話が通じない中、10日かけて情報を集めました。
    結果、残念なことに3社のうち1人だけ、若く真面目な社員が犠牲になりましたが、彼以外は全員無事でした。普段から県の研修会を受けて、津波を想定した訓練をしていた成果だと思います。
    ところが、本社を含め、27あった事務所や工場のうち25か所が壊れていました。加えて、40億円分の在庫もダメになってしまいました。

    ──9割もの拠点が壊滅していた。

    正直、「これはもう無理だな」とも思いましたよ。居てもたってもいられず、毎日3時に起きてはれきの山になった気仙沼の本社跡や、工場のあった岩手の陸前高田の町を見て歩いてね。何度歩いても、何も残っていませんよ。
    でも、3月の下旬、私は結論を出しました。人は誰でも、死に際に横たわって、人生を振り返ると言うでしょ。ここで会社を畳んだら、朝目覚める度に「もう一度やればよかったかな」と悔やみ続けることになる。それでは生きている価値がないですよ。たとえつぶれたって、挑戦したなら、死に際に「悔いはない」と言い切れる。そうしたら最高の人生じゃないかと。それで、再開を決めたんです。

    津波で壊滅した25施設のうちの1つ、岩手第一工場の惨状