2024年5月号
特集
まずたゆまず
一人称
  • 鈴木正三顕彰会会長小林 誠

名僧・
鈴木正三に学ぶ
勤勉努力の精神

日本人の勤勉性、資本主義の精神の源流をつくったとして高く評価される江戸前期の禅僧・鈴木正三。正三の生まれ故郷・愛知県豊田市則定町にある鈴木正三顕彰会の小林 誠会長に、その生涯や独自の仏教について紐解いていただいた。

この記事は約12分でお読みいただけます

忘れられた名僧

日々の仕事に心を込めて精いっぱい打ち込んでいくことが、そのまま仏道修行であり、人間として完成していくことになる――。

ほうそくぶっぽう」を説き、日本の倫理観、労働観に大きな影響を与えた江戸初期の禅僧・鈴木しょうさん。著名な評論家の山本七平氏も、「日本近代化に最も大きな影響を与えた思想家であり、その点では、日本の近代化による世界への影響を通じて、世界に最も大きな影響を与えた日本人の一人ということができる」と正三を評しています。

しかし、いまでこそ名僧、独創的な思想家として世に知られるようになった鈴木正三ですが、ほんの50年ほど前までは、正三の郷里である愛知県豊田市則定のりさだ町(旧すけ町)の人々にさえ、ほとんど忘れられた存在だったのです。

それが一変したのは昭和49年10月のこと。作家のみずかみつとむ氏が「正三の取材をさせてほしい」と、当時の足助町役場を突然訪ねて来られたのです。水上氏の来訪を契機に足助町は大騒ぎとなり、翌11月、地元の郷土史家や新聞関係者、著述家の神谷満雄氏らが知的なバックボーンとなって、「鈴木正三顕彰会」が立ち上がりました。私は県外の大学に在学中でこの騒動とは無縁でした。

以後の顕彰会は、正三に関する史跡の整備や記念行事、パンフレットや記念品の製作、小学生への正三講座など、自治会の「正三の里を育む会」と一体となり、正三が開いた恩真寺(豊田市山中町)を中心として設立された豊田市顕彰会とも連携を取りながら、様々な活動に取り組んできました。

特に正三が生まれた屋敷跡(一部は現在鈴木正三史跡公園として整備)に建てられた則定小学校では、平成七年より学芸会で「正三劇」が続けられ、ふる里の偉人を子どもたちが語り継ぎ、「真心こめて力いっぱい」という合言葉のもとに正三の思いを日々の活動に生かしています。

一方、正三の名前は忘れられていたとはいえ、正三が遺した教えや精神は確かに地域の人々の中に息づいていたことも事実です。

例えば、昔、夜な夜なお化けが現れ、村人を怖がらせるということがありました。村人たちが正三に相談すると、空の一升ますを与え、「月に一度これにお米や豆を集めて、皆でご飯やお餅を食べながら、念仏を唱えなさい」とアドバイス。村人が実行したところ、本当に誰もお化けを見なくなったといいます。この行事は、「下佐切しもさぎり念仏講」としてつい最近まで連綿と続けられていました。おそらく正三は、皆で一か所に集まり念仏を唱えることで人々の心の不安を取り除き、さらに、お互いのコミュニケーションを促進することによる村社会の安定化を狙ったのでしょう。

ちなみに、私が正三と本当の意味で出逢いを果たしたのは、顕彰会が創設されたずっと後、熊本の天草あまくさを訪れた時と言えるでしょうか。平成17年、正三没後350年を記念して、足助町・豊田市の関係者が天草に招待され、私も参加させていただいたのです。

なぜ天草かというと、後に詳しく触れますが、農民やキリシタンが主体となった「天草・島原の乱」で荒廃した天草を、正三が弟の重成らと共に復興させたからです。そのため、正三・重成・重辰しげとき(正三の実子で重成の養子)の三公は天草の鈴木神社にまつられており、現地の人々の正三に対する信仰には非常にあついものがありました。

その後も何度か天草を訪れる機会があり、現地の人々との交流を通じて正三の偉大さを改めて認識すると共に、特に鈴木神社の田口孝雄宮司には、正三の思いの強さについてしっかり教えていただきました。以後、正三と真剣に向き合うため、「正三七部の書」や関連書籍を読み進めてきたのですが、いつの間にか顕彰会の会長を仰せつかることになりました。

本欄では、正三の生涯を辿たどりながら、いま私たちが学ぶべき言葉や教え、取り戻すべき精神についてひもいてみたいと思います。

鈴木正三顕彰会会長

小林 誠

こばやし・まこと

昭和30年愛知県生まれ。元県立高校教諭。平成22年退職して、米づくり野菜づくりを専らとする。令和4年より鈴木正三顕彰会会長。