2021年10月号
特集
天に星 地に花 人に愛
インタビュー
  • 元大阪市立盲学校教諭藤野高明

唇で獲得した光を
祈りに変えて

視力と両手を失った私の教師人生

75年前、藤野高明さんは7歳の時に不発弾の爆発事故で両目の視力と両手を失った。実に13年間に及ぶ不就学期間を経て、盲学校に入学。唇で点字を読みながら社会科教師の道を目指して歩み始める。視覚障碍者が一般の教師になる道が閉ざされていた時代から、いかにして道を切りひらいてきたのだろうか。その前向きな生き方を通して、いまもなお人々に夢や勇気、希望を与え続ける藤野氏にこれまでの歩みをお聞きした。

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楽しく生きることが人生の目標だった

——藤野さんの壮絶な半生を知って心が揺さぶられました。事故で視力や両手を失った藤野さんが、多くの試練を乗り越えながら教師としての仕事をまっとうし、よくぞ82歳の今日まで頑張って生きてこられたと……。

ありがとうございます。こうして元気で穏やかに明るく過ごしていますから、いろいろなことはあっても藤野さんは楽しく生きてきたんやな、と思う人もいらっしゃるようです。だけど、現実はその真逆ですよ。7歳の時の不発弾の爆発事故で両目の視力と両手を失い、13年間も学校に行けずに、大学の就学も就職もままならなかった私の人生は悔しさや怒り、楽しくないことの連続でした。そんな私にとって楽しく生きるのが長い間、人生の目標だったんです。
だけど、いま思うとね、この目標はある程度達せられたのではないかと思っています。大阪の盲学校に受け入れてもらい、大学を卒業して高校教師になるという夢もかない、30年も務めさせていただいたわけですからね。生きがいを感じる仕事をし、たくさんの生徒たちや同僚とよい人間関係を築けたのはありがたいことでした。

——人生の喜びをいま、しみじみとみ締められている。

実は私が不慮の怪我けがで両目の視力と両手をなくし、2021年の夏で75年の節目を迎えたものですから、それを記念して4冊目の本を出すことにしているんです。少し書きめたものをまとめることにしていますが、併せてこれまでお世話になってきた方、先輩や同僚、教え子たちから寄せていただいた原稿を掲載することにしています。
350人くらいに依頼状を出して、藤野に関わった思い出とかエピソードを書いてくださいとお願いしたところ、ありがたいことに170人くらいが原稿を寄せてくださいましてね。制限字数の1,400文字をはるかにオーバーしたものがいくつもありました。編集を手伝ってくださる女性が「これは藤野さんの生前追悼集のようなものですね」とおっしゃっていましたけど、いろいろな人に支えられて生きてきたことに改めて感謝の思いが込み上げてきました。

——何よりの記念ですね。

いつもの年なら時々講演の依頼が入るのですが、コロナでその数がぐっと減りましたので、目下、この本の出版に向けて頑張っているところです。

——普段はどのような日常を送られているのですか。

朝夕の食事の準備や洗濯、掃除はヘルパーさんにお願いしていますが、それ以外はほぼ独力でこなしています。私は両手を失いましたが、手のひらがないだけですから、手首をうまく使えば受話器を握れるしプッシュ式のダイヤルを押すこともできる。携帯電話はいまもガラケーですが、両手首でしっかり本体を押さえて、唇でふたを開けて使います。原稿はライトブレーラーと呼ばれる点字タイプライターで書き、食事の時は手首にゴムを巻きつけて、そこにはしを差し込んで料理をいただいているんです。
妻は晴眼者せいがんしゃでしたから、生存中は日常をいつもサポートしてくれ、本も読んでくれました。いまは歩いて20分ほどのところに住んでいる娘家族が時々やってきては、いろいろと手伝ってくれています。

元大阪市立盲学校教諭

藤野高明

ふじの・たかあき

昭和13年福岡県生まれ。21年小学2年生の時、不発弾爆発により両目の視力と両手首を失う。34年大阪市立盲学校中学部2年に編入。46年日本大学通信教育部卒業。47年大阪市立盲学校高等部非常勤講師。翌年、同校教諭。平成14年同校を退職。同年、第37回NHK障害福祉賞受賞。著書に『あの夏の朝から 手と光を失って30年』(一光社)『未来につなぐいのち』『楽しく生きる』(共にクリエイツかもがわ)がある。