2021年10月号
特集
天に星 地に花 人に愛
対談
  • (左)文学博士鈴木秀子
  • (右)臨済宗円覚寺派管長横田南嶺

釈迦とキリスト

人類を照らし続ける二大聖人が唱えた人間学

私たち人類の発展や心の救済に大きな影響を与えた人物として釈迦とイエス・キリストの二大聖人を挙げることは異論のないところだろう。若くして天の願いや宇宙の法則を悟り、生涯それを人々に伝えて今日まで人類を幸せに導いてきた二大聖人から私たちはいま何を学べばよいのだろうか。混迷の時代を照らすその教えを、シスターである鈴木秀子氏、禅の師家である横田南嶺氏に語り合っていただいた。

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人間の死を意識した幼少期の出来事

横田 鈴木先生とは致知出版社の会などでいつもご一緒していますが、こうして対談するのは初めての機会ですね。

鈴木 そうですね。きょうは横田先生とお話しできるのをとても楽しみにしてきました。

横田 それにしても本日のテーマが釈迦しゃかとキリストということですが、2人の聖人の存在はあまりにも大きくて、何をどのように話したらいいのか、いまも頭を悩ませています。

鈴木 それは私も全く一緒ですよ(笑)。最初に横田先生がどういういきさつで仏教に目覚められたのかという辺りからお話しいただくのがいいと思うのですが、いかがでしょうか。

横田 そうですか。では僭越せんえつながら、私のほうから口火を切らせていただきますと、私がお釈迦様に心かれるようになったのは、人の死について考えるようになったことからでした。そして、死について考えたのは2歳の時でした。一緒に暮らしていた祖父が亡くなって、いつの頃からか「人間は必ず死ぬ」ということを考えるようになっていたんです。小学生になって親しい友人が亡くなるということもございましたから、なおのことでしたね。
小さい頃に人間の死について考える人は結構いらっしゃるようなのですが、私はその疑問からずっと離れることができなくて、小学校高学年になると仏教の書物に触れるようになりました。その時、人間は死を逃れることができない存在なのに、多くの人が死を忘れて享楽に走っていることに疑問を覚えられたことがお釈迦様の出家の動機であると知ったんです。ああ、ここにお手本があるなと。
中学生になると仏教の伝道者として知られる松原泰道たいどう先生とご縁をいただき、禅僧の風貌ふうぼうに初めて触れて大変感化を受けました。しかし、決定打となったのは高校生の時の山田無文むもん老師との出会いだったと思います。

鈴木 多くの優れた仏教書を残された高名な禅僧ですね。

横田 ええ。私は和歌山の地方の町の高校生でしたから、本当ならこういう偉い禅僧とお会いできることはないわけですが、同じ和歌山出身の山本玄峰げんぽう老師の墓参に行った時、近くで旅館を経営しているおばあさんとたまたまお会いしましてね。「あなたのような若い人が玄峰老師のお墓参りをするとは」といたく感心されまして、お墓に案内していただいたばかりか、「私の旅館に今度、山田無文老師が宿泊される。あなたも一度会っておきなさい。私が時間をつくってあげるから」と言ってくださったんです。信じられない話ですよ。
仙人みたいな白いひげをたくわえた無文老師にお会いした時、人間はここまで神々こうごうしくなれるのかと、とても感動したんですね。無文老師は花園大学の学長をやられていましたけれど、私はいま同じ花園大学の総長として勤めさせていただいています。これも不思議なご縁という他ありません。

文学博士

鈴木秀子

すずき・ひでこ

東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本にエニアグラムを紹介。著書に『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』『幸せになるキーワード』(共に致知出版社)『死にゆく人にあなたができること』(あさ出版)など。近刊に『機嫌よくいれば、だいたいのことはうまくいく。』(かんき出版)。

献身的なシスターたちの姿に触れて

横田 鈴木先生のキリスト教との出合いはどのようなものでしたか。

鈴木 私は戦争中に育ちまして、中学1年生の時に戦争が終わったんですね。すると、それまで天皇陛下のご真影しんえいに最敬礼しろ、日本が東洋を率いていかなくてはいけないと言っていた校長先生や教頭先生が戦争が終わった途端、「いまだに天皇陛下のご真影に向かってお辞儀をしている馬鹿者がいる」と。同じ先生がそういう言葉を発したことに驚き、価値観が全く逆転してしまったことに大きなショックを受けました。
終戦の年の夏休みが終わって最初にやったのが教科書を墨で塗る作業でした。大事にしていたものを全部否定され、心が空洞みたいになって、いままで大事にしていた価値あるものに替わるものは何かと考えても見つからなかったんです。永遠に変わらない価値あるものがあるのではないかとの思いから大学へと進みました。
私たちの時代はまだ共学という制度はなくて、女子大は全国に4つしかありませんでした。それぞれに個性豊かで、聖心女子大学のそれは国際性が豊かなことでした。これまでの価値観を否定されて生きていく中で、国際性のある大学とはどういうところだろうという関心から聖心女子大学を選んだんです。

横田 子供の頃から人知れず、様々な葛藤かっとうを抱えて歩んでこられたのですね。

鈴木 当時、カトリック教会では敗戦後の日本を援助するために、世界の一流大学で教鞭きょうべんっていた海外の教育者に声を掛けて、日本に送り込んでいました。聖心女子大学にもそういう先生が集まっていて、自分の国を捨ててやってきた修道女(シスター)もたくさん学生たちの教育にたずさわっていました。
当時、カトリックのシスターたちには一生涯を通じて個人的な会話を絶対にしてはいけない、沈黙を守らなくてはいけないという厳格な規則がありました。だから、私たち学生が知っているのはシスターの名前だけ。どの国に生まれてどういう環境で育ったのかなど誰も何も分かりません。それでも彼女たちは、これから日本を背負っていく若い女性たちを育てるために死に物狂いで働いていました。
一方で、大学には教える側とは別に掃除や家事などを受け持っているシスターもいました。彼女たちは学校の廊下をいたり、寄宿舎で学生が使う皿を洗ったりしながら何かぶつぶつ言っているんです。まだカトリックのことは何も分からなかった私が友達にそのことを聞いてみると「いまここを通った学生と家族、それに連なる人たちが幸せでありますようにと、いつも祈っているのよ」と。
国や大切な家族を捨て、厳しい規律を守りながら、しかも人のために働くことだけが喜びという、およそ普通の人たちにはできないことができる、そのエネルギーの源は何だろうかと思いました。

横田 それがキリストだったのですね。

鈴木 ええ。自分たちはイエス・キリストによって愛されたのだから、いただいた愛を人にも分け与えたいという一念で働いていることを知って、イエス様への関心が高まっていきました。
シスターたちにとっては、講義などを終えて宿舎に帰った後も修行でした。沈黙を守りながら夜中に起きて血だらけになってひざまずきながらお祈りをするような毎日を送っていましたが、それでいてとても明るいんです。いま思うと、シスターたちの姿そのものがキリストを表していたように思います。彼女たちの真剣さに心打たれたことが、私がシスターになった理由の一つですね。

横田 鈴木先生は聖心に行かれるまで、キリストの教えに触れることはなかったのですね。

鈴木 ええ。私は静岡の浜辺の町で生まれ育ちましたけど、キリスト教とは全く無縁の環境でした。父は小さな銀行を経営していて、毎朝縁側に立って一時間身動きもせずにずっと庭を眺めるのが日課でした。ある時、「何を考えているの」と聞いたら「いや、何も考えていない。ツバメが来たなとか、ツルが飛んできたなとか、雨が降ってきたなとか、それだけを考えている」と。それで嬉しいとか、微笑ほほえましいとか、動物たちが元気であってほしいとは思わないというんです。
私は後になって、ああ、これこそが祈りなのではないかと思うようになりました。目の前に起きてくることを、いい、悪いと判断せずにそのまま一つひとつ受け入れていく。父はそこに素晴らしさを感じていたんですね。坐禅なんかもそうではありませんか。

横田 ええ。坐禅も心に浮かぶことをそのまま受け止め、しかもそれにとらわれない世界ですから、確かに先生のおっしゃる通りです。祈りについての本質的なお話をいただいて、いま大変感動しているところです。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県新宮市生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。著書に『人生を照らす禅の言葉』『禅が教える人生の大道』『命ある限り歩き続ける』(五木寛之氏との共著)など多数。近刊に『十牛図に学ぶ』(いずれも致知出版社)。