2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
我が心の稲盛和夫③
  • 村田機械会長村田純一

将来を熱く語り合った
在りし日を偲んで

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有言実行、率先垂範の姿に間近で接して

90歳。人の一生を考えれば長寿といえるのでしょうが、稲盛和夫さんが亡くなられたいま、京都の町の中心軸が欠けてしまったような、そんな喪失感がぬぐえません。

稲盛さんとの出逢いは20代後半、繊維機械の販売を得意としている当社が京セラのセラミック部品を仕入れたことで知り合いました。稲盛さんは私の3つ上と年齢が近く、1杯呑むことになってご縁が深まっていきました。

鹿児島の人らしく大変仲間思いで、酒は強くないものの賑やかに食卓を囲むのが好きな方でした。同じく京都に会社を構えていた若手経営者仲間であるレースなどを扱うルシアンの野村直晴さん、計量器のイシダの石田隆一さんと、稲盛さんと私を加えた4名で、それぞれの自宅ですき焼きを食べ合っていたのは懐かしい思い出です。

京都で起業したワコール創業者の塚本幸一さんは一回り先輩の経営者でした。当時の京都経済界では、明治生まれの方々が中心で、大正・昭和生まれの我々は〝若手〟でした。そこで塚本さんが京都の若手経営者を集めて「正和会」という会をつくり、毎月一度集うことになりました。

しばらくすると、毎回ご飯を食べるのであれば自分たちでそういう場をつくろうという話になり、稲盛さんと塚本さんが中心となって、経営者仲間が集うためのバー「イレブン」をおんはな小路こうじのビルの一角につくりました。これはソニー創業者・盛田昭夫さんやヤクルト社長の松園尚巳ひさみさんらが東京でつくっていた経営者クラブにならって、京都にもとなったわけです。当時は全国各地に日本経済を伸ばそうという活気が満ち溢れ、夜な夜な皆で集まり、酒を呑みながら将来を語り合ったものです。

いまでも忘れられない思い出があります。あの頃の私たちにとって「年商1,000億円」という数字は経営者として目指したい境地でありながら、遥か彼方の目標でした。しかし稲盛さんの頭の中ではその次の次元、「1兆円」が視野に入っていたのです。「年商1,000億円に到達したい」と夢や志を語り合っていると、稲盛さんは「いや1兆円だ。1社で1兆円は程遠いけれど、京都の会社10社がそれぞれ1,000億円を売り上げれば、1兆円に到達できる。我々で結束して、そのくらいやろうではないか!」、そう皆を鼓舞されたのです。

1,000億円という数字に尻込みしつつも稲盛さんに刺激され、年商1,000億円の事業計画を掲げたのが1980年、私が45歳の時でした。高い目標を思い続けることは重要で、弊社もグループ連結売上高が約4,000億円を達成できました。京セラさんはいまや年商1.8兆円の大企業です。

稲盛さんは思いつきで言葉を発せられることはなく、一度掲げた目標に向かって着実に、一歩一歩達成するまでしつこく努力されました。呑んでいる時はたわいもない話をしていても、実際の企業経営での有言実行、率先垂範の姿を間近で見て、大変学ばせていただきました。

村田機械会長

村田純一

むらた・じゅんいち

昭和10年京都府生まれ。33年アメリカに留学し、35年村田機械入社。45年創業者である父の急死により社長に就任。その後、京都商工会議所会頭、日本繊維機械協会会長、日本商工会議所副会頭などを歴任。平成15年より会長。令和4年取締役会長に。