2017年5月号
特集
その時どう動く
  • 岩手県立宮古工業高校実習教諭山野目 弘

いまも、
その時を忘れない

津波模型で伝えたいこと

実際の津波の様子を再現する津波模型をとおして東日本大震災の教訓を伝え続ける岩手県立宮古工業高校実習教諭の山野目 弘氏。山野目氏もまた、大震災という「まさか」を乗り越えてきた一人である。津波模型に託した思いを語っていただいた。

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造船技術にヒントを得て

東日本大震災から6年の歳月が流れました。しかし、被災地ではいまなお至るところに震災の爪痕が残っています。私が住む岩手県宮古市も、多くの人家や店舗が津波に浚われ、尊い人命が失われました。雑草が高く繁茂する空き地に、かつては家族の団欒や笑い声、人々の豊かな生活があったことを思うと、何ともやりきれない気持ちです。亡くなった知人や教え子たちを思う度に、いまもなお深い悲しみが込み上げてきます。

歴史を振り返ってみると、東北の沿岸部は津波の常襲地帯でした。明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波など幾度の試練に見舞われながら、私たちの先祖はそれを力強く乗り越えてきたのです。

ここ数十年間に絞っても、東北、北海道地方では根室沖、釧路沖、十勝沖、青森県東方沖などで海溝地震が発生し、その度に津波注意報が発令されてきました。幸いどれも被害はなかったものの、再びやってくるであろう大地震や大津波に対する警戒心を私はずっと抱き続けていました。

一方で、昭和8年に発生した昭和三陸津波の体験者は年々減り続け、人々の記憶からは遠のき、歴史は風化する一方でした。国や県では、早くから高さ10メートルの防波堤や防潮堤の建設を進めてきましたが、宮古市内の一部では防潮堤のない危険な場所すらありました。「このような状態で万一、大津波が来たらどうしたらいいのだろうか」。住民の一人として不安は高まっていたのです。

ある頃から私は「街並みや海を立体模型で再現し、そこに人工的な津波を起こして、どのように街に流れ込むかを見せれば、人々の防災意識の啓発に繋がるのではないか」と考えるようになりました。というのは、私は工業高校の教師になる以前、造船マンとして働いた経験があったからです。

35年ほど前、造船の世界では船のオーナーの間で省エネ船が注目を浴びていました。私は船が走る際の波の抵抗(造波抵抗)を減少させるための船型を独自にデザインし、それを縮小した模型をつくり、人工的な波を発生させて実験を繰り返しました。その結果、模型で発生させた人工的な波と、試運転で生じた実際の波の形態が同じだったことが分かりました。

私が考案した省エネ船は、オーナーにも大変好評でした。私はこの体験を津波模型に生かせないかと考えたのです。

このような過程を経て私は宮古工業高校機械科の3年生とともに津波模型の制作に取り組みました。試行錯誤を重ね、最初の模型が完成したのは平成17年のことです。

岩手県立宮古工業高校実習教諭

山野目 弘

やまのめ・ひろし

昭和27年岩手県生まれ。県立釜石工業高校卒業後、静岡県、岩手県の民間造船所に勤務。61年から宮古工業高校実習教諭を務める。