2023年2月号
特集
積善せきぜんいえ余慶よけいあり
対談
  • 高台寺和久傳社長桑村祐子
  • 由布院玉の湯社長桑野和泉

おもてなしの道を
追求して

京都を代表する料亭「和久傳」と大分由布院を代表する温泉旅館「玉の湯」。先代よりそれぞれの経営を引き継ぎ、ブランド価値をさらに高めてきたのが桑村祐子さんと桑野和泉さんである。事業承継に至るまでの葛藤や努力、コロナ禍における苦労や挑戦を赤裸々に語っていただくと共に、全国から客足が絶えない秘訣、お二人が目指す一流のおもてなしとは何か。そして繁盛し続ける老舗はどこが違うのか──。

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和久傳と玉の湯その紡いできた歴史

桑村 和泉いずみさん、お久しぶりです。きょうはわざわざ京都までお越しくださり、ありがとうございます。

桑野 祐子さんとは親同士のご縁でかれこれ30年くらいのお付き合いになりますが、対談するのは初めてなのですごくテンションが上がっています(笑)。

桑村 私たちが出逢ったばかりの頃は、お互い目の前の仕事に必死でゆっくりお話しすることはなかったですからね。それに和泉さんは当時から公の場でご活躍だったので、同い年ながら精神的な距離というか(笑)、すごいなといつも思っていました。

桑野 よくおっしゃいますね(笑)。

桑村 いや、本当に。ですから、貴重な機会をいただけて私も嬉しいです。

桑野 でんさんの他の店舗は何度か食べに伺ったことがありますけれども、高台寺こうだいじには初めて訪れました。とても素敵なお部屋で落ち着きますね。

桑村 この建物は数寄屋すきや建築の名工と称される中村そとさんが昭和27(1952)年に建てられた日本家屋で、かつては日本舞踊の尾上流家元のお住まいでした。
和久傳の歴史を簡単に辿たどると、もともと廻船かいせん問屋どんやをしていた和久屋傳わくやでん右衛もんが明治3(1870)年に京都の丹後で下宿屋を興したのが始まりで、和久屋傳右衛門を縮めて和久傳と名づけられました。開国して間もない頃でしたから、「和を久しく伝える」という精神も込められていたのではないかと思っています。
明治から大正、昭和初期までは地場産業の丹後ちりめんの発展と共に料理旅館として繁盛していたものの、戦後、化学繊維の普及により丹後ちりめんが衰退すると、旅館の経営も傾いていきました。このままではつぶれてしまうという危機感から、母・桑村綾が一念発起し、徒手空拳としゅくうけんで京都市内に出てきたんです。縁あってこの建物を譲り受け、料亭を構えたのが昭和57(1982)年ですから、もう40年になります。

桑野 ちょうどその頃に、お母様がいんにいらしていただいて、私の父・溝口薫平くんぺいもお会いしたみたいですね。

桑村 ええ。母は溝口さんのことを尊敬していまして、同じように田舎のよさをコンセプトにしていたので、由布院さんの活動に注目し、参考にしたのだと思います。

桑野 そう言っていただける由布院は幸せです。

桑村 何しろ東京一極集中がトレンドの時に、ものすごく革新的な取り組みをされましたよね。

桑野 由布院はかつて奥別府おくべっぷと言われていたように、別府温泉が有名で、その奥にあるひなびた寒村の温泉地でした。
明治神宮のもりや日比谷公園などを手掛けた林学博士のほんせいろく先生が、実は大正13(1924)年に由布院で講演をしてくださっているんですよ。それが「由布院温泉発展策」という記録に残っていて、由布院はドイツの温泉保養地に学ぶべきで、住んでいる人も訪れる人も共に健康になる街をつくりなさいと書かれてありました。
その文献を目にした亀の井別荘の中谷健太郎さんや私の父たちが昭和40年代にドイツの温泉保養地を視察します。そこで何を感じたかというと、3世代、100年の軸を見据えないといけないということです。温泉保養地に大事なのは静けさであり、緑であり、安らぎの空間。そういうものをつくっていくには100年かかるんだと。
小さな温泉地ですから、お互いに競い合うのではなく、それぞれがオンリーワンを持って仲間になろう。隣をうらやましいと思うのではなく、隣の持っているものもプラスに考える。そうやって町全体で団結し、仲間をつくって、みんなで共有していけば、小さな宿も生き残れると。自然を生かした滞在型観光地として「地域ありき」でスタートし、いまなお受け継いでいるのが由布院なんですね。その由布院の中の一つの宿が玉の湯だと思っています。
玉の湯は昭和28(1953)年に禅寺の保養所として開業し、自然や地域との共存を第一に考え続け、今日に至っています。約3,000坪の雑木林の中に13棟16室を設け、客室内風呂・大浴場共に天然掛け流しの温泉で、都会では味わえない心地よい豊かな空間を提供したいと思っています。スタッフはパートタイマーさんを入れて約50名、20代から80代まで幅広い年齢層の人に働いてもらっています。

高台寺和久傳社長

桑村祐子

くわむら・ゆうこ

昭和39年京都府生まれ。62年ノートルダム女子大学卒業。平成2年家業である料亭「高台寺和久傳」の2号店として、カウンター席中心の「室町和久傳」をオープンし、軌道に乗せる。19年「高台寺和久傳」女将、23年社長に就任。現在、京都市内に5店舗の料亭を運営する。

「命、預かってるな」経営者としての覚悟

桑野 和久傳さんはいま何店舗を経営されているんですか?

桑村 料亭は本店の「高台寺和久傳」、カウンター席が中心の「室町和久傳」、オープンキッチン形式の「京都和久傳」、蕎麦そばと料理のお店「いつつ」、朝食を提供している「たん」の5店舗、虫養むしやしないとお土産の「はく」、「白 marunouchi」のギャラリーを運営しています。パートタイマーさんも含め150名ほどのスタッフを抱え、年商はコロナ前の数字にほぼ回復してきまして、約10億円になっています。

桑野 コロナ禍の2年半は本当に大変でしたよね。

桑村 初めて緊急事態宣言が発令された頃は、店舗を休業せざるを得ないので、90%くらい売り上げが落ちました。ひと月に5,000万円もの赤字が出るんですね。ただ、私の中では助成金をもらうことに対して申し訳ない気持ちがありましたし、非常時のために普段の経営があると思っていたので、随分我慢してやってきました。
まずこういう時こそ人が大事だと直感しまして、すぐに全店舗を回って、「誰一人辞めさせるようなことはしない。何があっても守るから」と伝えました。
そして、自力でできることはないか、再開した時にお客様にどうやって恩返しをしていくか、スタッフともずっと話し合って、料亭の味をご家庭でつくって楽しめるお料理キットを配送したり、営業していない間も普段通り毎朝お店を掃除して綺麗きれいにし、空気がよどまないように、いつも新鮮な空気が流れているようにしていました。

上)伝統ある料亭がひしめく京都で、後発ながらも多くのお客様に愛され、2022年に開店40年を迎えた一流料亭「高台寺和久傳」 下)幻のカニと呼ばれる間人蟹(たいざがに)を使用した焼き蟹コース・蟹会席は同店の冬の名物となっている

桑野 素晴らしい心懸けですね。

桑村 でも、そうしているうちにやっぱり限界が来て助成金もいただくようになり、少しずつ観光も戻ってきて、何とかしのぐことができたという感じですね。その間、スタッフが健康でいてくれたのが何よりで、あの時に「命、預かってるな」って心から思いました。
感染が拡大し始めた頃、出店しているデパートさんが休業することをなかなか決めないわけですよ。その時に直談判じかだんぱんに行って、「おたくが閉めないんだったら、うちは独自に閉めますけど、いいですね」と言いました。決まらないことへのもどかしさにいきどおりを覚えると同時に、働いているスタッフの健康を預かっているという責任感から、すごく力が湧いてきたんです。

桑野 スタッフを守るというトップの覚悟が伝わってきます。

桑村 以前から「和久傳は独立する人を育て社会に貢献する」ことを目的に、若手を育てるため研修に力を入れてきました。例えば、料理人が1から10まで自ら決めたテーマのもと皆の前で料理を披露する若手料理研究会、サービススタッフだけでロールプレイングやブレインストーミングをしたり、各店のよい事例や問題を共有したりする姫椿会ひめつばきかい、新入社員研修での農業体験や海外研修なんかもやっています。
教えられたことを自分なりにしゃくして判断して表現することがない限り、うちでしか評価されないですし、成長が途中で止まってしまう。でも、みんながかなえたいのは独立や自分の家族を幸せにすること。ですから、研修のテーマは「和久傳を超える」なんです。

桑野 すごくいいテーマですね。

桑村 以前は私が旗振り役でやっていたんですけど、コロナのおかげでみんなが思わぬ力を発揮してくれまして、自発的に、しかも楽しんで取り組んでいるので、スタッフの成長がいい形で次につながるんじゃないかと期待しています。

由布院玉の湯社長

桑野和泉

くわの・いずみ

昭和39年大分県生まれ。62年清泉女子大学文学部卒業。平成4年家業の温泉旅館「由布院玉の湯」に入社、広報の仕事を担う。その後は専務を経て、15年社長に就任。NHK経営委員、JR九州社外取締役、ツーリズムおおいた会長、由布院温泉観光協会会長などを歴任する。