2026年6月号
特集
人間を磨く
一人称
  • 山本玄峰老師頌徳会 会長久保隆一

磨いたら
磨いただけは光あり

名僧・山本玄峰の生き方が教えるもの

眼病による失明の危機など、様々な艱難辛苦に耐えながら、過酷な修行を生涯続け、「今白隠」と称された名僧・山本玄峰。玄峰老師の郷里に設立された山本玄峰老師頌徳会 会長の久保隆一氏に、その波乱に満ちた96年の生涯、いまなお輝きを失わない珠玉の教え、平和への祈りを紐解いていただいた。

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    山本玄峰

    やまもと・げんぽう

    江戸時代末期、和歌山県に生まれる。若い頃に眼を患い四国遍路の途中、土佐雪蹊寺の山本太玄に出会い得度。滋賀永源寺、神戸祥福寺などを行脚。雪蹊寺住職となり、京都円福寺の見性宗般に師事して嗣法。大正4(1915)年龍澤寺に入山。海外での禅の布教にも尽力。昭和36(1961)年{遷化|せんげ}。著書に『無門関提唱』。©『無門関提唱』(大法輪閤)

    山本玄峰老師頌徳会 会長

    久保隆一

    くぼ・りゅういち

    昭和23年和歌山県田辺市生まれ。和歌山市の企業に就職後、23歳の時にUターンで郷里に帰り、家業に入る。郷土の偉人・山本玄峰老師を顕彰する「玄峰老師頌徳会」に入会。平成14年会長に就任。

    いまも人々の心に生きる山本玄峰老師

    人生の様々な艱難辛苦かんなんしんくに耐えながら、厳しい修行を重ね、「いま白隠はくいん」とまで称された名僧・山本玄峰やまもとげんぽう老師。その教えは多くの政財界の要人を導き、昭和天皇の「終戦の詔勅しょうちょく」や日本国憲法の制定にも影響を与えたとされています。

    戦後生まれの私は玄峰老師と世代が違うこともあり、お目に掛かる機会はありませんでしたが、いみじくも老師と同じ和歌山県田辺市本宮町渡瀬の地で生まれ育ったことにご縁を感じてきました。

    この渡瀬から大変立派な方が出ているんだぞ──。子供の頃から父に老師の話を聞かされていましたが、当時はそれ以上の詳しいことはまったく知らなかったというのが本音です。しかし、23歳の時、勤めていた和歌山市から父の事業を継ぐためにUターンで郷里に帰ったことが転機となりました。青年団や商工会の地域活動に取り組んでいく中で、山本玄峰老師頌徳しょうとく会のメンバーと出逢ったのです。

    かねて父から聞いた玄峰老師のことをもっと知りたいと思っていた私は、頌徳会に入会することに決め、以後老師について本格的に勉強するようになったのでした。

    頌徳会は、「地元の偉人 山本玄峰をより多くの方々に知って頂き、その遺徳にあずかり、地元の心の遺産として磨き輝かせたい」との思いから、元本宮町助役/初代会長の森行光氏のもと、平成2年6月2日に会員57名で設立されました。活動としては、老師にご縁のある方々をお招きした講演会や禅画報(玄峰老師特集号)の本宮町全住民への配布など様々な取り組みを行ってきました。

    また、老師は昭和36年6月3日に96歳で亡くなられましたが、毎年6月2日の墓地及び本宮町湯峯にある「玄峰塔」の清掃活動、三日命日の墓参、玄峰塔前の広場にて行われる法要(毎歳忌)は、特に頌徳会、地元を挙げて開催される行事です。地元の方々だけではなく、県外からも多くの方に参加していただいています。

    「玄峰塔」の大字は、老師が亡くなる20日前、「地元の方に頼まれていることがある」と言って布団から起き上がり、背中を支えてもらいながら揮毫きごうされたものです。これが老師の絶筆とされており、昭和37年9月28日、地元有志により石碑としていまの場所に建立されました。とても96歳、亡くなられる20日前に書かれたとは思えないほどの気力にあふれた字で、圧倒されるばかりです。

    道半ばで亡くなられた森会長の申し送りにより、平成14年、私が頌徳会の会長を拝命させていただき現在に至ります。会長を拝命したのは54歳の時でした。

    これは最近の出来事ですが、渡瀬にお住いの91歳の女性の方が亡くなられたため、早速お悔やみに伺わせていただいたところ、何と額に入れられた玄峰老師の写真が故人の枕元に飾られていたのです。普段は全く老師の話をしたことのない方でしたので、本当に驚きました。渡瀬の方々の心の中には、玄峰老師がいまだ生きて存在していることに、感激と心温まる思いが込み上げてきました。