2018年2月号
特集
活機かっき応変おうへん
インタビュー①
  • ニーハオ食品会長八木 功

「いただいた恩は
忘れない」

戦争や文化大革命など激動の中国を残留邦人として生き抜き、現在は東京で中華家庭料理店「你好」を展開する八木 功氏。様々な逆境の中で道を開いてきた八木氏の歩みと、その思いの原点についてお聞きした。

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1万個の餃子を仕込む

——パリッとして肉汁たっぷりの「羽根つき餃子」は広く愛されていますが、八木さんはその生みの親だとお聞きしています。

40年ほど前、自己流で餃子を研究していた時に、薄皮をつける大連の焼き饅頭を思い出して、水溶きの小麦粉を少し掛けて焼いてみたんです。自分でも納得できる味と形ができてお世話になった人に振る舞ったところ、大変喜んでいただきましてね。これがきっかけとなって你好ニーハオを開店することになりました。今年(2018)で33年になります。

——いろいろなところに出店されているようですね。

東京に12店舗あります。100人ほどのスタッフが働いてくれていますが、餃子はすべて蒲田にある本店でつくっているんです。なぜかというと、どの店に行っても同じ味の餃子を食べてほしいから。嬉しいことに、「まずい」「味が違う」と文句を言ってくるお客様は一人もいません。
朝6時半に店に行って、その日お店で出す餃子を仕込むのが私の1番の仕事です。多い時には1万個をつくりますから、50キロの小麦粉をねて皮をつくり、具は重さが100キロくらいになります。仕込みが終わるのが10時半くらいかな。それを創業以来、私が一人でやってきました。誰にも任せない。

——33年間、毎日ご自身で仕込みを続けてこられた。

私は83歳になりますが、これまで休んだ日は1日もありません。他の人に仕込みをやらせると味つけが変わってくるから、いくら忙しくても手を抜かない。
それに、美味しい餃子をつくるにはいい材料が欠かせません。肉はき肉ではなくブロックを買って自分たちで2時間くらいかけて挽きます。野菜も機械ではなく自分たちの手で刻みます。いろいろなやり方を試してきて、美味しい餃子をつくるにはこれが1番だと納得できたんです。

ニーハオ食品会長

八木 功

やぎ・いさお

1934年中国・旅順に生まれる。敗戦後、父親と生き別れになり、中国に残留。79年日本に永住帰国。83年「羽根つき餃子」で知られる你好を蒲田に開店した。その人生は石井克則著『「你好」羽根つき餃子とともに 二つの祖国に生きて』(三一書房)で紹介されている。