2018年7月号
特集
人間の花
  • 参議院議員中山恭子

ウズベキスタンに咲いた
日本の桜

中央アジアの一角を占めるウズベキスタン共和国では、毎年春になると1,000本を超える日本の桜が見事に咲き誇る。かつてソ連軍に強制連行された日本人たちが移送されていった国の一つ、ウズベキスタン。そこには抑留生活を強いられた日本人と現地人との心の繋がりがいまも途切れることなく保たれている。その知られざる歴史の一幕とともに、日本の桜を異国の地で花開かせた経緯について、元ウズベキスタン大使の中山恭子さんに話を伺った。

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日本とよく似た国

日本とあまり馴染なじみのない国に大使として赴任するにあたって、不安がなかったかと言えば、全くないというわけではありませんでした。まもなく21世紀を迎えようとしていた当時、ウズベキスタンとタジキスタンの南側、大河アムダリヤを挟んで、長い国境で接しているアフガニスタンでは、イスラム原理主義グループが着々と力をつけ始めていました。2台のイリジウム衛星携帯電話をスーツケースにしまい込んだのは、もしもの時には山中や砂漠の中からでも連絡が取れるようにという用心のためです。

名古屋国際空港からタクラマカン砂漠上空を経て、ウズベキスタン共和国の首都タシケントに着陸したのは、1999年8月8日のこと。約8時間にわたる飛行の末、遠く中央アジアの国に辿り着いた私にとって、最初の驚きとなったのはウズベキスタンの人々と日本人との類似性です。彼らの顔つきが私たち日本人とよく似ているだけでなく、何気ない仕種しぐさまでもそっくりでした。

かつて政治学者のサミュエル・ハンチントンはその著書『文明の衝突』の中で、日本は一つの国で独自の文明を築いてきたと著しました。確かに周辺国を見回しても、日本は、中国や朝鮮半島の国々とは文化の面で大きく異なり、欧米諸国などとも異なります。そのため日本は世界で孤立した存在である、という不安というか心細さが私の中にありました。

しかし、ウズベキスタンの地に降り立った瞬間、その思いは綺麗きれいさっぱり消え去ることになりました。中国を挟んだ西側に、日本と同じ文化、心根を持った国がある。その気づきは、ウズベキスタンに大使として赴任できたことへの喜びに変わっていきました。

ウズベキスタンは中央アジア5か国のうち中央に位置する国で、当時の人口は約2,560万人(現在は3,190万人)。中央アジア全体の人口が約5,680万人でしたから、その半数近くがウズベキスタンで暮らしていました。

代表的な都市の一つサマルカンドは、シルクロードの十字路に位置するオアシス都市として栄えました。その歴史は紀元前5、6世紀頃から始まり、インド遠征の折に立ち寄ったアレキサンダー大王は、都市があまりに美しいことに感嘆したと言い伝えられています。また、8世紀にはアラビア人に征服され、強制的にイスラム化されました。13世紀にはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍によって廃墟はいきょと化しましたが、14世紀にアムール・チムールが、すぐ隣に新しい都市を再建しました。

ウズベキスタンはユーラシア大陸のちょうど中央に位置し、豊かな土地であったため、このように多くの国が覇権を争い、また、東西交易の交差地点として様々な民族が行き交い、栄えました。それゆえ人種も多様で、ウズベク人、カザフ人、キルギス人など一つひとつ数え上げていくと、民族の数は実に120を超えると言われています。まさに「人種の坩堝るつぼ」です。

ただ、同じ「人種の坩堝」と称されるニューヨークと比べると、いささかおもむきを異にします。というのも、ニューヨークではそれぞれ異なる人種の人たちが独立して存在しているという印象を受けますが、ウズベキスタンでは人々が溶け合い、どこか渾然こんぜんとした統一感が感じられます。おそらく長い時間をかけて、少しずつ文化や民族が融合してきたからなのでしょう。

参議院議員

中山恭子

なかやま・きょうこ

昭和15年東京生まれ。38年東京大学文学部仏文学科卒業。41年大蔵省(現・財務省)に入省。平成5年国際交流基金常務理事。11年ウズベキスタン共和国特命全権大使兼タジキスタン共和国特命全権大使。14年内閣官房参与。18年内閣総理大臣補佐官(拉致問題担当)。19年参議院議員。著書に『ウズベキスタンの桜』(KTC中央出版)『国想い夢紡ぎ』(万葉舎)がある。