2025年8月号
特集
日用心法
一人称
  • 信州善光寺本坊大歓進貫主栢木寛照

中江藤樹とうじゅに学ぶ
人生の心得

近江聖人と称えられる江戸期の儒者・中江藤樹。その残した言葉には、私たちが日常生活を送る上で大切な心得も多い。同じ滋賀県に生まれ、僧侶になって以降も藤樹の教えを指針としてきた信州善光寺本坊大勧進貫主・栢木寛照師に、仏教者から見た藤樹の教えを紐解いていただいた。【肖像=公益財団法人藤樹書院所蔵】

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    孝の実践者・中江藤樹

    私が通っていた滋賀県甲賀市・ばんたに小学校の講堂には、大きな武士の肖像画が掲げられていました。ある日、その人物が地元の偉人・なかとうじゅであると知った私は、帰宅してすぐに母親に藤樹先生がどのような人なのかを尋ねました。

    母は、藤樹先生が子供の頃、藤太郎と呼ばれていたこと。9歳の時に親元を離れて、お祖父さんに連れられて鳥取の米子よなご藩で生活するようになったこと。けれど、母恋しさの余り故郷の小川村(現・滋賀県高島市)まで歩いてやってきて、その時、母は会わずに追い返されたことなどを話してくれました。

    さらに詳しく知りたいと思って母親の同級生だった担任の先生に質問したところ、先生はこんな話をしてくれました。

    「藤太郎はある時、故郷のお母さんがあかぎれやしもやけで難儀をしていると聞いたらしい。そこで薬を手に入れ、雪の中、何日もかけて米子からやってきたんや。ところが、藤太郎に気づいたお母さんは戸をビシッと閉めたまま中に入れてくれない。

    『お母様』と叫んで何度も何度も戸を叩くうちに、お母さんはひと言『先生の許しを得てきたんか』と。『いいえ、勝手に抜け出してきました。お母様があかぎれやしもやけで困っておられると聞いて、薬を持ってきたんです』『そうかい、じゃあ薬はもらっておくから、それを置いてそのままお帰り』。片時も忘れたことのないお母さんの顔を見ることもなく、藤太郎は力を落として米子までの雪道を一人で帰っていった。だけど、お母さんはすべては藤太郎のことを思ってのことや」

    藤太郎が立ち去った後、そっと雨戸を開けて、雪道を帰る後ろ姿が見えなくなるまで涙ながらに見送る母親。その情景が胸に伝わってきて、私は感動を抑えることができませんでした。冷静に見れば、米子から高島までの道のりを少年の足で本当に歩いてこられるのか、もしかしたら偉人につきものの伝説なのかもしれません。しかし、この逸話は強烈に私の心に焼きついたのです。これが私と藤樹先生との出会いでした。

    藤樹先生は慶長13(1608)年に小川村の農家に生まれました。9歳の時に米子藩士だった祖父の養子となって親元を離れて米子へと旅立ちます。翌年、祖父が仕えていた藩主が国替えになると、藤樹先生は祖父と共にのくにおお(現・愛媛県大洲市)に移り住むようになります。

    藤樹先生に本格的な学問を身につけさせようとした祖父は、藤樹先生に師をつけ、先生もまた祖父の期待に応えようと熱心に学問に励みます。15歳の時に元服して知行ちぎょう100石の大洲藩士となり、この年、祖父が亡くなると家督を継ぎました。

    先生の一大転機と言えば、寛永11(1634)年、27歳の時、母親への孝養を理由に辞職を願い出たことでしょう。しかし、再三の願い出にもかかわらず辞職は認められず、やむなく脱藩を決行して小川村への帰郷を果たされるのです。そこで清貧生活を送りながら藤樹書院という私塾を開き、身分に関係なく幅広い人たちに人としてのあるべき道を説き、後に儒者として名をせる熊沢ばんざんをはじめ多くの逸材を育成。その遺徳をしのぶ後世の人々から近江おうみせいじんと仰がれるようになります。

    中江藤樹

    なかえ・とうじゅ

    1608(慶長13)〜1648(慶安元)年。近江国高島郡小川村に生まれる。9歳の時、米子城主の家臣であった祖父の養子となり、主家の転封に伴い米子、そして伊予大洲へと移り住む。27歳の時、脱藩し小川村へ帰る。31歳で居宅に藤樹書院を開き、武士や近郷の人々に学問を講じる。身分を問わず教化し、のちに近江聖人と呼ばれた。主著に『翁問答』『鑑草』。 【肖像=公益財団法人藤樹書院所蔵】

    信州善光寺本坊大歓進貫主

    栢木寛照

    かやき・かんしょう

    昭和21年滋賀県生まれ。一般企業を経て43年比叡山にて出家。平成27年善光寺大勧進副住職、令和4年瀧口宥誠前貫主の死去に伴い貫主に就任。比叡山麓三宝莚住職、比叡山延暦寺一山慈光院住職を兼ねる。公益社団法人三宝莚国際交流協会理事長、北マリアナ連邦名誉市民。テレビ・ラジオを通しての説法は広く知られる。著書に『親が育てば子も育つ』(徳間文庫)など。