2019年4月号
特集
運と徳
対談
  • (左)臨済宗円覚寺派管長横田南嶺
  • (右)作家五木寛之

いかに運命を開くか

人は様々な夢を抱いて生きる。しかしそこに至る道は必ずしも平坦ではなく、目に見えない様々な働きに翻弄される。運命──この抗いがたい力と、私たちはどう向き合えばよいのだろうか。デビュー時より数々の話題作を世に問い続けてきた五木寛之氏と、若くして日本を代表する名刹を受け継いだ横田南嶺氏。2018年10月号の対談で大きな反響を呼んだお二人に再びご登場いただき、思うに任せない運命に処する生き方を語り合っていただいた。

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少々のことがあっても人間は生き延びていく

横田 『致知』10月号の対談では、大変貴重な勉強をさせていただきました。五木さんとの対談は一度きりと思っておりましたけれども、まさかのまさかでまたこうしてお話ができるとは夢にも思いませんでした。ありがとうございます。

五木 こちらこそ。僕もとても嬉しく思います。

横田 その後も五木さんの本はいろいろ読ませていただいておりましたけれども、ある方から五木さんのことを知るには『運命の足音』を読みなさいと勧められて早速拝読いたしました。終戦前後の壮絶なご体験を交えて、運命についての様々な考察がなされておりまして、あぁこういう世界があるのだなぁと深く感じ入りました。

五木 いや、いや、恐縮です。

横田 拝読しながら脳裏によみがえってきたのが、私の師匠に当たる円覚寺えんがくじ先代管長・足立大進あだちだいしん老師の言葉でした。師匠は五木さんと同じ昭和7年の生まれで、「我われがいくら偉そうなことを言っても、戦争の弾の下をくぐってきた者にはかなわない」とよく申しておりました。五木さんのご本を読ませていただいて、やはり戦中戦後を体験された方には敵わないと痛感しました。

五木 しかし、本当はそういう苦労はしないほうがいいと僕は思うんですよ。あの本にも書きましたが、僕が朝鮮半島で終戦を迎えて日本へ引き揚げてくる時は、人を押しのけてでも前へ出なければ生きていけませんでした。しかしそういう大変な中を潜る度に人間性というのはゆがんでしまうところがある。我執がしゅうといいますか、そういうものが自分の中に宿っているのを感じる度にそう実感するんです。
僕がデビューをした1960年代半ばに、「花の7年組」という流行語がありました。僕と同じ昭和7年に生まれた人たちが非常に活躍をしていたものですから、そういう言葉が生まれたんです。思いつくままに挙げていきますと、例えば作家の小田まことさん、映画監督の大島なぎささん、音楽家の岩城宏之さん、放送作家の青島幸男さん、漫画家の白土三平さん……。

横田 確か、石原慎太郎さんも昭和7年生まれですよね。

五木 石原さんに至っては、僕と同年同日生まれなんです(笑)。とにかく多士済々たしせいせいで挙げれば切りがないんですが、皆さん例外なくエゴが強くて、出しゃばりで(笑)。それはやはりあの終戦の最中に、戦災孤児になろうとするところを何とか生き延びてきただけに、自分が前に出るというか、人を押しのけて落ちているものでも拾って食べるというか。生命力が強いと言えばそうなんですけれども、ちょっと恥知らずなところがありまして、何かこう忸怩じくじたるものがあるんですね(笑)。

横田 私はそれを東日本大震災の時に感じました。我われの世代にとっては初めて経験する大災害でしたから、もう日本は滅びてしまうのではないかと思うくらい衝撃を受けたのですけれども、師匠のようにかつてすさまじい戦禍せんかを潜り抜けてきた世代の人たちは、またきたかと。これもやがて乗り越えていくだろうという受け止め方をしていました。我われとの温度差というか、度量の違いというのを実感したものでございます。

五木 確かにそういう気運はありました。焼け跡にも花は咲く、少々のことがあっても人間は生き延びていくんだという思いは、僕の世代の一つの特徴としてありますね。

作家

五木寛之

いつき・ひろゆき

昭和7年福岡県生まれ。27年早稲田大学露文科入学。41年小説現代新人賞、42年直木賞、51年吉川英治文学賞を受賞。また英文版『TARIKI』は平成13年度『BOOK OF THE YEAR』(スピリチュアル部門)に選ばれた。14年菊池寛賞、22年『親鸞』で毎日出版文化賞を受賞。

平成というのはどんな時代だったか

五木 平成が間もなく終わろうとしています。最近はそれを踏まえて、平成という時代にどういう印象を抱いているかという質問を新聞などから盛んに受けるんですね。けれども、どうも平成っていうのは色があわいというか、印象が薄いんですよ。昭和という時代が非常に強烈で、濃い色をしていただけにね。

横田 そういう中でも、五木さんが一番印象に残っていることは何ですか。

五木 やはり東日本大震災というのは大きかったですね。あれはやっぱり大変なショックでした。

横田 平成最後の年に選ばれた「今年の漢字」は奇しくも「災」でございました。平成は阪神・淡路大震災で始まり、東日本大震災もあり、非常に災害が続いたという印象もございますね。

五木 被災された方々のことを思うととても心が痛みます。ただ、先ほど横田さんもおっしゃったように、それでこの国が滅びてしまうとまでは思いませんでした。

横田 私が真っ先に思いますのは、何があったというより、戦争がなかったこと。これをまず思います。

五木 あ、確かにそれは大きいですね。

横田 ミサイルが上空をかすめることはありましたけれども、落ちることはなく、昭和の時代のように空襲におびえることもありませんでした。
私は戦後の生まれですけれども、子供の頃は実家の真向かいの家が空襲で焼け落ちたままでした。まだ防空壕ぼうくうごうも残っていましたし、傷痍しょうい軍人や物乞ものごいの浮浪者も至る所にいました。ですから、私の世代はかろうじて日本はあの戦争で負けたんだというのを肌で感じていますし、だからこそこの30年は親たちが経験した辛い思いをせずにすんだことに感謝しなければならないと思うんです。ついつい戦争がないのが当たり前のように思ってしまうんですけれども、それは先人のご努力の賜物たまものであることを決して忘れてはなりません。

しかし、私よりも若い世代は傷痍軍人なんて言ってもまったく通じませんし、戦争の悲惨な記憶を留めていた新宿や上野の街もすっかり綺麗きれいになりましたね。綺麗になったのはいいけれども、一方でそういう記憶が失われていいのかという思いもある。五木さんはどう思われますか。

五木 うーん、やっぱり時代の変遷へんせんというのは逆らいがたくあるもので、そのことを嘆くとか、残念がるとかいう気持ちは僕にはないんですよ。こういうものなんだと受け止めています。
言葉もどんどん消えていきますね。最近は復員ふくいんという言葉が全く通じなくなりました。引揚者ひきあげしゃもちゃんと読み仮名をつけなければ「ひきあげもの」と読まれてしまいます(笑)。人口配置では、全く戦争に参加したことがない若い層が非常に分厚くなってきていて、そういうのを見ていると、時々自分が時代に取り残されたような気がすることも確かにあります。世の中というのはそういうふうに流転るてんしていくものでしょう。
けれども僕は、変わってきたことを嘆くより、むしろこれから先どんなふうに変わっていくんだろうと、ドキドキしながら見守る気持ちのほうが強いですね。あまり昔のことは振り返らないんです。

横田 あぁ、なるほど。

五木 それに、そういう流転の中にも何か変わらないものが一本通っているような気もするんです。
例えば、『致知』でも安岡正篤まさひろさんのように、もうお亡くなりになった昭和の思想家の話がずっと読まれたりしていますよね。書店に行っても中村天風てんぷうさんのような方のご本がいつも並んでいる。禅の世界もまさに長い長い歴史の中で様々なものが生き続けています。ですから、世の中というのは全部変わっていくのではなく、何かその中に変わらないものが一本通っている。そういう印象を僕は持っているんですけれども。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。近著に『自分を創る禅の教え』(致知出版社)。