2016年4月号
特集
夷険一節
対談
  • 葵パール社長松平洋史子
  • 作家石川真理子

武家の祖母から
学んだ人生訓

社会の激しい変化に伴い、日本人の心の拠り所となっていた先人の尊い教えが失われつつある。水戸徳川家の流れを汲む松平洋史子氏と、米沢藩士の血を引く石川真理子氏に、各々の祖母の教えを交えて、現代にも通ずる人生をしなやかに歩んでいくための生き方について語り合っていただいた。

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美しく、逞しく生きることを説き続けた祖母

石川 私は常々、米沢藩士の娘であった祖母の教えを通じて、かつての武家の教えや、日本の精神を学んでおりますので、水戸徳川家の流れを汲む松平さんにお目にかかるのを楽しみにしておりました。
きょうは松平家に代々伝わる教えについて、ぜひいろいろお聞かせいただきたいと思います。

松平 本当はね、人様の前でこういうお話をするのは禁じられているんです。松平家の美学なのね。ところが、私の祖母も母も活発なところがあって(笑)、社会との接点が随分多くなったものですから、私もいつのまにか外でお話をさせていただいたり、本を書かせていただいたりするようになりました。

石川 そうだったのですか。松平家といえば日本では名家中の名家ですから、そこに伝わる教えを公開していただけることは、日本人として本当にありがたく思います。
21世紀になって、もう江戸時代なんて遙か昔みたいに考える方が多ございますから、なおさら松平さんのお話は心に刻んでおかなければならないと思います。

松平 ありがとうございます。

石川 松平さんのお家のことを少しお教えいただけませんか。

松平 私の曾祖父は水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔・頼聰で、そこに嫁いだ曾祖母・千代子は井伊直弼の次女でした。婚礼には街道を埋め尽くすくらいのお嫁入り道具を伴って来たんですが、桜田門外の変が起きて、井伊直弼が水戸藩士に襲われてしまいました。親が敵同士になりましたから、普通だったらそこで離縁状を渡して終わりますけど、2人は互いに想い合っていて、明治になってから結ばれました。

石川 まぁ、素敵ですねぇ。

松平 2人の子である祖父の松平胖に嫁いだ祖母の俊子は、鍋島の侯爵家だった鍋島直大の六女でした。西洋の文化を重視していた鍋島家から、武家の精神がしっかりと息づいている松平家に移ってきたわけです。
娘の頃はとても活発で、学習院時代のお授業の終わりになる頃に、「一番後ろで、お廊下に一歩足を出すぐらいの気持ちでいたのよ」とおっしゃっていました。終わった途端に真っ先に駆けてテニスコートを取りに行ったんですって(笑)。
けれどもただ好奇心が旺盛なだけではなくて、17歳で結婚した後も、立ち居振る舞いを厳しく躾けられてきました。鍋島家の娘として身につけたお琴とか鼓とか能とかもずっと続けられていました。
社会的にも随分活躍した人で、関東大震災の時には、怪我をして避難してきた人たちを、お屋敷のカーテンを包帯代わりにして手当てをしてあげ、炊き出しをして皆さんに振る舞ったそうで、それがきっかけで日本赤十字の活動に関わるようになりました。

石川 あぁ、赤十字の活動にも関わられて。

松平 その時の祖母の話が印象的でしてね。松平家では一汁一菜で、「二分は人様のために」という腹八分の精神が貫かれているんです。そして祖母はあの震災の時に家にあったお米を皆さんに振る舞いながら、「あぁ、これが二分の精神なんだな」と深く納得したそうなんです。

石川 普段の慎ましい生活が、有事に生きたわけですね。

松平 そうなんです。そして家族と生き別れになった子供たちのために「子供の家」というのをつくって支援もしました。いまもそれはあるんですけど、昔のお嬢様っていうのは、奉仕というか、人のために何かするっていう覚悟を常に持っていらしたんですね。
それから、これからは女子の教育が必要だと考えて、昭和女子大学の前身だった日本女子高等学院の創立の時に、世田谷に土地を払い受けて支援しているんです。創設者の人見東明先生に請われて校長を務めましたが、その時に松平の作法を女子教育に取り入れて、女性は美しく、逞しく生きていくことを伝え続けました。

葵パール社長

松平洋史子

まつだいら・よしこ

京都府生まれ。水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔。幼少期より松平方式の厳しい躾を受けて育つ。国立音楽大学教育学部在学中に結婚。大日本茶道協会会長、広山流華道教授、茶懐石・宋絃流師範等を務める傍ら、母親が創立した葵パールの社長を務める。祖母・松平俊子がまとめた松平家に代々伝わる生き方教本『松平法式』を受け継ぎ講演会も行う。著書に『松平家 心の作法』『松平のおかたづけ』(講談社)『一流の男になる松平家の教え』(日本文芸社)などがある。

見てはいけません心眼で察するのです

石川 素晴らしい方だったのですね。お祖母様とはどのくらい一緒にいらしたのですか。

松平 私がお嫁に行ってからも元気にしておりましたから、随分長く一緒でした。
一番の思い出は、私が大学生の時のことでした。ドライブ好きだった祖母を月に1回連れて行くことを条件に車を買ってもらったのですが、夏の暑い時にお蕎麦屋さんに入ってざる蕎麦を頼んだら、祖母はおざるにおつゆをザーッとかけてしまって、「あら大変、このお皿、おつゆが漏れてる」って(笑)。

石川 お上がりになったことがなかったんですね(笑)。

松平 そうなんです。祖母は何しろ、まだお毒味がいるような時代に育ったものですからね(笑)。
でもありがたかったのは、お店の娘さんが「すみません」ってスッと下げて、すぐに深いお皿に入れ替えて持ってきてくれたんです。普通でしたら「そうではなくて、こうやって食べるんですよ」って説明するんでしょうけど、彼女はそうしなかった。おそらく社員教育など受けていないでしょうけれども、自分の気持ちに従って咄嗟にそういう対応ができるというのは素敵でしょう。私は販売をやっていますから、本当のサービスってこれだなって、いま振り返ってつくづく思うんです。

石川 そのとおりだと思います。

松平 松平家ではそういうことをお屋敷の中で教育されるわけです。
例えば、祖母には陳情の日というのがあって、その日はたくさんの方がお越しになって控えの間でお待ちになるんです。私はそういう時、お茶をお出しする女中の横で、お差し替えをするお役目を仰せつかるんですけど、そのタイミングを厳しく教え込まれました。

石川 どのようになさるのですか。

松平 お飲みになる時、角度が上に上がった時にお茶がなくなるんですけど、それを直接見てはいけなくて、心眼で察するのですと。そして、なくなったのが分かってもすぐにお差し替えに行ってはなりません。丹田で十数えて、肩の力をスーッと抜いてから「お差し替えはいかがですか?」と伺うと、「あぁ、ちょうど飲みたかったのよ」と喜んでいただける。
その「ちょうど飲みたかったのよ」って思っていただける間も心眼で感じられるようになりなさいって言われるんです。

石川 まさしく一流のおもてなしですけれども、そういうことをいつ頃から教わるのですか。

松平 一番初めは3歳の時からです。

石川 3歳からですか。それは大変!

松平 松平の主は大門っていう大きな門から帰ってきて、みんなでお迎えするんですけれども、そこに3歳からデビューするんです。畳に手を突いてお辞儀をするんですけど、子供は頭が重たくてカクンと前のめりになるでしょう。そんなみっともない子は出しちゃダメってなるので、三つ指をお膝の上に突くように教えられました。そうすると背筋がピッとなって頭も落っこちなくて、子供でも綺麗にお辞儀ができるんです。

作家

石川真理子

いしかわ・まりこ

東京都生まれ。文化女子大学服装学科卒業。アパレルメーカー、編集プロダクションに勤務。結婚後、作家として活動。結婚するまで米沢藩士の末裔である祖母中心の家で、厳しくも愛情豊かに育つ。著書に『女子の武士道』『女子の教養』(ともに致知出版社)等。また、3月下旬には弊社より『勝海舟修養訓』が刊行される予定。