2026年6月号
特集
人間を磨く
対談
  • 高倉町珈琲会長横川 竟
  • ハイデイ日高会長神田 正

経営の道は果てなし

日本初のファミリーレストラン「すかいらーく」を兄弟4人で開業し、かつて業界の底辺と目されていた外食を産業にまで発展させた横川竟氏。徒手空拳で立ち上げたラーメン屋を、熱烈中華食堂「日高屋」として首都圏を中心に約470店舗展開する一大中華料理チェーンに育て上げた神田正氏。共に八十の坂を上りながらも、経営の第一線を走り続ける道友が語り合う、あらゆる試練を越えてきた挑戦の軌跡、人生と経営を繁栄させる要諦とは――。

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    高倉町珈琲会長

    横川 竟

    よこかわ・きわむ

    昭和12年長野県生まれ。中学校卒業後、築地の卸問屋などで修業を積み、37年兄弟4人でことぶき食品を設立。45年「すかいらーく」1号店となる国立店を出店。取締役、子会社ジョナス(後にジョナサン)社長、会長を経て、平成18年すかいらーく会長兼最高経営責任者に就任。20年に退任後、25年高倉町珈琲1号店を東京八王子に出店。26年独立会社として高倉町珈琲を設立、会長に就任。

    ハイデイ日高会長

    神田 正

    かんだ・ただし

    昭和16年埼玉県生まれ。中学校卒業後、15回以上の転職を重ねた末、ラーメン業界に足を踏み入れる。48年「来々軒(現・来来軒)」開店。53年日高商事(現・ハイデイ日高)を設立。平成14年「日高屋」開店。18年東証一部(現・プライム)上場。21年より現職。著書に『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)『熱烈中華食堂日高屋:ラーメンが教えてくれた人生』(開発社)。

    「俺はいつも1,000円ぐらいの食事をするんだ」

    神田 横川さんは大先輩でいつも教わってばかりですから、対談なんておこがましいですよ(笑)。

    横川 いやいや、とんでもない。神田さんと初めてお会いしたのは、30年ほど前でしたよね?

    神田 ええ。紹介を受けて一緒にゴルフをやったのが最初でした。

    横川 ゴルフのうまい飲食店経営者がいると聞いて、楽しくゴルフをした思い出があります。

    神田 それからお会いする機会もありましたけど、上場を見据えて社外役員を探していた約20年前、横川さんの下で働いていた方と巡り合ったことを機に、一層懇意にしていただくようになりました。

    横川 確か同時期、閉店が決まったすかいらーくの駅前物件をいくつかお譲りしたんですよね。

    神田 そうでした。あの時は本当にお世話になりました。
    もう一つ、私の友人が横川さんの親戚なんですよね。そういうご縁もあって、いまも年に1、2回はくにたちの事務所に伺い、相談や情報交換をさせてもらっています。
    かつての飲食店はイメージの悪い職業とされていました。それをすかいらーくが上場を果たし、産業にまで発展させてくれた。横川さんはまさに先駆者であり、革命家です。特に勉強になったのは、兄弟の子供は会社に入れないことですね。

    横川 僕らは四兄弟で創業する時にいくつかルールを設けました。奥さんは働かせない、子供は会社に入れない、給料は四等分。守れない場合は出資したお金を放棄し、会社を去る。このルールが空中分解しなかった最大の理由です。

    神田 私も弟と義弟の3人で創業期から走ってきましたけど、子供は誰も入っていません。
    それから、初めて事務所を訪ねてランチをごそうになった時、横川さんは私にこう言ったんです。「俺はいつも1,000円ぐらいの食事をするんだ」と。お金なんていくらでもあるだろうに、「ああ、すごい人だ」と思いましたね。

    横川 格好つけたことを言ったかもしれません(笑)。ただ、自分がやっている商売の中心価格で生活することは心掛けてきました。成功したからといって、いつも高級店に行っていると感覚が狂い、商売の勘所かんどころを見誤ってしまう。ですから、日頃からスーパーに通って旬の食材や消費者の動きを観察したり、1食1,000円ほどの飲食店で食事をしたりしています。
    神田さんのお店にも時々勉強のために伺います。お客様はいい加減な商売をやっていたら来てくれません。ましてや外食産業で成功するのは1,000店に1店ほどですから、神田さんは非常にに、コツコツといい仕事をされてきたんだと思いますよ。

    神田 ありがとうございます。横川さんにそう言っていただけて、これ以上名誉なことはありません。

    人間形成の根幹になった貧しい幼少期の経験

    神田 80半ばになってつくづく実感するのは、人間は分からないものだということです。私は中学しか出ていませんけど、もし大学に通っていたら、上場企業はつくれなかったと思います。

    横川 大学に行っていたら、少なくとも外食には来ていませんよ。

    神田 おまけに、私は埼玉県たかはぎ村(現・日高市)一番の貧乏家で育ちました。親父がしょう軍人で帰国して満足に働けませんでしたから。八畳一間の家には水道もなく、落ち葉や蛇が浮かぶ山の井戸から水をみ、親子六人でをする。あの頃は貧乏が嫌で、嫌で、嫌で仕方なかったですね。
    それでも、働き者のお袋がゴルフ場のキャディや物売りをしながら、私たちきょうだいを養ってくれました。「頑張れば大丈夫」と口にして寝る間も惜しんで働くお袋の後ろ姿から、人生の厳しさや勤勉な生き方を教えられました。

    横川 僕は男4人女1人の三男坊で、3歳からの3年間を満州で過ごしたんです。教師をしていた親父は国の将来を憂えて満州の開拓団の隊長を務め、家族も連れて大陸に渡りました。裕福ではありませんでしたけど、隊員が面倒を見てくれたので、お坊ちゃんのような生活をしていたわけです。
    ところが、僕が小学校に上がる頃、親父が感染症で亡くなり長野に引き揚げてからは、生活が一変したんですね。雨漏りのひどい家に住み、とにかく食べるものがない。家計は困窮を極め、つらい時期を過ごしました。食べたいものが食べられないのに、生きていてもしょうがない。この戦後の体験が僕を食の道に導いたんだと思います。

    神田 当時はみんな腹をかせていましたよね。私はお袋を楽にさせたい一心で、小学6年生からキャディのアルバイトをしました。よかったのは、人を見る眼が養われたことです。約4時間一緒にコースを回っていると、言葉遣いや接する態度で「この人はどんな人か」が分かってくる。これは社会に出て大いに役立ちました。
    苦労の最中は分からないけど、将来必ず自分のプラスになって返ってきます。ありがたいな、神様っているんだなと思います。

    横川 僕も家計を支えるために、小学3年生の時から新聞配達を始めました。自宅の庭で落花生の栽培も行いましたが、たいを積んだつちむろに種をくと芽が早く育ち、収穫も早くなると気がつきましてね。市場よりも一足早く出荷したら相場より高く売れて、「人がやらないことをして喜んでもらえれば、儲かるのか」と学びました。
    人に喜ばれ、自分も豊かになることが商売の基本だといつも言っているのは、幼少期の経験でつかんだ実感なんです。