2026年6月号
特集
人間を磨く
一人称
  • 英斎塾塾長三木英一

せいさんしょ』に学ぶ
リーダーの心得

中国元朝の名臣・張養浩が著した『為政三部書』という書物がある。大臣や法務監察、地方行政など政治、行政に携わる長の心得を説いたものだが、その内容は現代にもそのまま当てはまる。そして、『為政三部書』には一つの貫かれた精神がある。それが修身である。私たちは自身を磨き高めるために同書から何を学んだらよいのか。九十一歳の現在も同書をテキストに講義を続ける英斎塾塾長・三木英一氏に語っていただいた。

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    英斎塾塾長

    三木英一

    みき・えいいち

    昭和10年大阪府生まれ。東京教育大学文学部卒業(英語学・英米文学専攻)。以来38年間兵庫県で高校教育、教育行政に従事。退職後、次世代の人材育成活動に従事。現在全国木鶏クラブ代表世話人会顧問を務める他、英斎塾という人間学の勉強会を主宰。号は英斎。平成6年教育者文部大臣表彰、7年兵庫県教育功労賞、17年春の叙勲にて瑞宝小綬章受章、令和6年兵庫県社会賞受賞。現在、日本会議兵庫会長、美しい日本の憲法をつくる兵庫県民の会共同代表。兵庫縣姫路護國神社総代会長。姫路市遺族会長、英霊にこたえる会兵庫県本部顧問等の役職を務めている。

    民衆のために生きた張養浩の生涯

    私が『せいさんしょ』に触れたのは平成15年に致知出版社から出された『「為政三部書」に学ぶ 出処進退の人間学』を通してでした。この本は、安岡正篤まさひろ先生のご令息できょうがく研修所・安岡正篤記念館理事長(当時)の安岡まさやす氏がご尊父の著書『為政三部書』を分かりやすく解説されたものです。

    その書名のごとく政治や行政を為す者の心得を説いたものですが、もともとの出典は中国元朝の名臣・ちょうようこうが著した『さんちゅうこく』という書物です。昭和13年、満洲事変から支那しな事変に発展していた頃、日本の前途を憂慮していた正篤先生はたまたまこの本を手に取って深い感銘を受け、政官財の指導者に警鐘を鳴らすために、同書を『為政三部書』と改題して出版されたのです。

    私はそれまで『為政三部書』(『三事忠告』)の存在は知っていましたが、正泰氏の著書によって初めてその内容を知ることになりました。最初に手にした時、13~14世紀を生きた張養浩の説いた政治家や役人の心得が、厳しいビジネスの世界で古典を活学してこられた正泰氏の解説を通して現代によみがえるのを感じて、いたく感動したものです。

    この本と出合った時、私は66歳。公教育の第一線から身を引き、東西の古典をせいどくして先人のえいを学び合う私塾・えいさいじゅくを立ち上げ、塾長として後進の育成に当たっている時でした。兵庫県の公立高校の英語教師を振り出しに、兵庫県警察学校の副校長、淡路教育事務所所長、姫路東高校校長など教育現場、教育行政両方の道を歩んだ日々を振り返りながら、「この書物に記されていることはその通りである」と深くうなずくと同時に、もっと早く読んでおけば、という思いも込み上げてきました。

    本欄では正泰氏の解説を参考にしながら、この本の要点を読み解いていくことにします。

    『為政三部書』は「びょうどう忠告」(大臣に対する忠告)、「ふうけん忠告」(法務監察に対する忠告)、「ぼくみん忠告」(地方行政に対する忠告)の3部からなり、国政、法務監察、地方行政それぞれに携わる者が守るべき心得や事柄が、張養浩自身の経験に基づいて説かれています。

    張養浩は1269年、山東省の出身。少年の頃から熱心に勉学に励み、その評判が地方監察の耳に届き、推挙されて役人の道を歩むようになります。ある時、彼が病に伏したことを聞いた大臣が見舞いに訪れたところ、部屋にあるものは四方の壁ばかりで、清貧ぶりに感じ入ったとされています。

    長官に昇進した後も、貧困ゆえに盗賊になる者を救って新しい道を整えてあげたり、暴力団には断固向き合って検挙したりと、いつしか「張公には背いてはならぬ」と言われるほど民衆の信望を集めるようになりました。監察官の長官時代には、汚職まみれの行政大臣が監察官を任命することに対して「盗人ぬすっとを捕まえる役人を盗人に選ばせるような馬鹿なことがあるか」と厳しく指弾した、との逸話も残しています。

    いささかも物怖ものおじせずに直言を繰り返す養浩の姿勢は周囲に煙たがられ、官界から排除されて危険が身に迫ることもありました。その後、幾度も重職登用の話はあったものの、政治の頽廃たいはいを目の当たりにした養浩はこれを固辞し、隠棲いんせいを決意するに至ります。

    養浩が再び社会の表舞台に出たのは1329年、現在のせん西せいしょうだいかんばつが起き、民衆が極度の飢餓きがひんした時でした。監察長官ともいうべき重職に任ぜられた養浩は、餓死する民衆をできず、長安に赴任するに当たって自らの財産は郷里の貧民に与え、道で出会った飢えたる人々を救い、死者は手厚く葬ったとされています。

    養浩は、家族を亡くした人々の嘆きや、野犬やからすが死体をむさぼる悲惨極まりない様子をしちごんりっにまとめていますが、「大臣たちはこの状態をどう思うのか。心を痛めずにはいられないはずだ」とふんまんやるかたない思いで詩を結んでいます。

    少年時代、戦地となったパラオで父を亡くし、戦後、貧困と栄養失調で視力を失いかけた母が、私たち3人を連れて父のもとに行きたいと言って泣く姿を目の当たりにしてきた私にとって、養浩の詩は強く胸に迫ってくるものがあります。

    養浩はその後も、身銭を切るなどして貧民救済に死力を注ぎ、激務による過労も重なって病を得、60歳で他界。人々はまるで父母を亡くしたかのように、その死をいたんだといわれます。