2024年7月号
特集
師資相承
インタビュー3
  • 白岩運輸社長白鳥宏明

人生の師・
鍵山秀三郎氏に
学んだこと

静岡県伊東市で物流会社を営む白鳥宏明氏は、「日本を美しくする会」副会長を務める。荒れた会社の後継者として孤軍奮闘、立て直しに呻吟していた氏にとって一筋の光明となったのが掃除であり、人生の師・鍵山秀三郎氏との出逢いであった。鍵山氏との邂逅、薫陶を交えながら、今日までの歩みを振り返っていただいた。

この記事は約11分でお読みいただけます

入社して知った会社の実態

──まずは貴社の概要からお聞かせください。

当社、白岩運輸は静岡県伊東市で、1971年に私の父が仲間と共同出資して始めた物流会社です。現在では一般物流を主に、引っ越し業務、倉庫管理を3つの柱として事業を展開しています。社員は30名、売り上げは2億8,000万円ほど。規模としてそんなに大きくはないのですが、着実に年輪経営を重ねています。一般的に物流業界は従業員の入れ替わりが多いと言われていますが、ありがたいことに平均定着率は高く、お客様の対応という点でも良い評価をいただいています。
私自身、日本を美しくする会のかぎやまひでさぶろう相談役(イエローハット創業者)に長年師事してきた1人として、日々の掃除は33年継続し、毎月の早朝勉強会なども欠かさず行ってきました。そのような小さなことの積み重ねによって社員の意識は少しずつ良くなってきたと思います。
私が入社した38年前は社員教育とはまるで無縁の会社で、社内の雰囲気は言葉に出すのもはばかられるくらいさつばつとしていましたから、その意味では社風は確実に良くなってきました。

──かつてはそんなに荒れた会社だったのですか。

お恥ずかしながら、その通りです。私は大学卒業後、東京で不動産関係の仕事に就きました。じゃくはいものの自分でもお客様から一人前に扱ってもらえるのが嬉しくて大変充実した毎日を過ごしていたのですが、25歳の時に「共同経営の相手が辞めるから仕事が大変になる。後継ぎとして戻ってこい」と父から連絡がありました。それで悩んだ末に家業に入りました。
後から分かったことですが、当時の会社の内部事情は、税金を払うのもやっと、会社がつぶれるといって社会保険の加入もさせてもらえませんでした。会社の敷地内には飲みかけの缶コーヒーがあちこちに捨てられ、トラックで踏まれてべたべたになり異臭を放っていました。
社長である父は狩猟しゅりょうなどの道楽に時間を費やすことが多く、会社にはほとんどいませんでした。時折、会社に来ると、仕事で疲れて椅子に座って休んでいる社員を見て「おまえら、何を遊んでいるんだ」としかりつけるので、社員も「俺たちは社長の鉄砲玉を稼いでいるようなものだ」と怒りをあらわにするほどでした。そのような状況の中で、二重帳簿をつくって裏金を遊興費に充てるようなことまでしていました。
当時、従業員は10数名ほどで、私は専務という肩書でしたけれども、これ以上不法なことをやったら大変なことになるという思いから、ある時、独断で「今後、一切裏金づくりはやめるように」と事務員に話しました。

──反応はいかがでしたか。

事務員は困っていましたので、何か聞かれたらすべて私から言われたと話すように指示しました。父は私に会社はそんなもんじゃないとますます抵抗勢力になっていきましたね。
当時、会社から持ち出したお金で毎日のように宴会をやっていた社員が、構内でビール瓶を上に放り投げて割るという光景もありました。ある朝、配達員から、「おい宏明、タイヤがパンクしたら会社が責任持てよ」と名指しで怒鳴られました。私は、「ああ、すみません」と言ってほうきとちり取りを持って片づけたのですが、悪ふざけをした社員で手伝おうとする者は誰一人いませんでした。みぞれ交じりのこごえるような日で、寒さと怒り、悔しさで手が震えました。このことがきっかけとなり、人間というのはどうすれば良くなるかを真剣に考えるようになりました。

白岩運輸社長

白鳥宏明

しらとり・ひろあき

昭和35年静岡県生まれ。拓殖大学卒業後、不動産会社勤務を経て25歳で家業の白岩運輸に入社。専務を経て平成22年より社長。一方で、鍵山秀三郎氏が創始した「日本を美しくする会」の活動に早くから携わり、現在日本を美しくする会副会長、伊東掃除に学ぶ会代表世話人を務める。