2024年7月号
特集
師資相承
インタビュー2
  • 姫路師友会会長田中昭夫

試練によって
安岡教学を活学した
我が人生

東洋学の泰斗・安岡正篤先生が逝去されて40年以上が経過した。姫路師友会会長の田中昭夫氏は数少なくなった面授の弟子のお一人である。様々な人生の逆境の中で、田中氏はいかに安岡教学を活学してこられたのだろうか。安岡先生との邂逅を交えて、その師資相承の歩みを伺った。

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安岡教学を伝承し半世紀以上

──田中さんは長年、姫路師友会会長として安岡教学の伝承に努めていらっしゃいますね。

はい。昭和47年の姫路師友会の設立以来、半世紀以上その活動にたずさわってまいりました。この間、安岡まさひろ先生のご高弟の先生をお招きした講義や研修会、『論語』『大学』『易経えききょう』『史記』など東洋古典の勉強会を今日まで続けてきております。
実は姫路の地は安岡先生との縁が深いんです。先生のご尊父・堀田喜一氏が姫路にある天台宗・しょしゃざんえんきょうを訪ねて奥様の安産を祈願された時、本堂でお祈り中に偶然にも黄金の観音様を入手して持ち帰られ、ほどなくしてお生まれになった安岡先生に生涯のお守りとして授けられるんです。安岡先生は終生、腹部に巻いたさらしの中にこの観音像を入れて大切にされていたと言います。
この話は姫路師友会初代会長の岩松たもつ先生が赤穂あこうにお越しになられた時、安岡先生から直接お聞きになった話なのですが、この岩松先生は私と安岡先生とのご縁を結んでくださった方であり、岩松先生の存在なしに今日の私は存在しません。その意味で掛け替えのない人生の師匠なんですね。

──安岡先生との出逢いはどのようなものだったのですか。

それをお伝えするのに少し私の生い立ちからお話ししたいのですが、私は昭和16年に大分県別府市で生まれました。すぐに大東亜戦争が始まりまして、連合軍の日本本土への爆撃が激化した19年秋に母の故郷・国東くにさき半島の国東町に疎開し、その土地に住み着くようになったのです。ここは半農半漁の町で、田畑などの生活基盤がない両親が一家を養うのは並大抵のことではありませんでした。
おまけに私が小学2年生の時に父が中風ちゅうふうで倒れましてね。子供心にも母の苦労を肌で感じながら育ちました。地元の長老たちからは「田畑がないよそ者は生活が大変だから、昭夫、学校での勉強を頑張って、八幡やはた製鉄に行って働け」と耳にタコができるくらい繰り返し聞かされたものです。父も「中学を卒業して土木作業をすれば現金が入る」という考えでしたが、母は私が高校に行くことを応援してくれました。たまたま中学2年の時に県立大分工業高校(大分市)に夜間部ができたことをラジオのニュースで知り、それで親元を離れて住み込みで働きながら勉強するようになったんです。
高校時代はセメント瓦の工場で朝から夕方まで働く中で体を痛め、他人の飯を食べる息苦しさ、気まずさを嫌と言うほど味わったりしましたが、「他人様から後ろ指を指されることは絶対にするな」という両親のていきんを支えに乗り切りました。計算尺(当時の計算器具)の県の競技会で優勝し、全国大会にまで出場できたのは「ちゅうらくり」の嬉しい思い出です。卒業後は幼い頃からの念願であった富士製鉄(現在の日本製鉄)に入社できました。配属先が広畑製鉄所(姫路市)で、これが姫路とのご縁ですね。

──努力が実ったのですね

ところが、ようようと入社したものの、理不尽な光景に直面しましてね。昭和35年のその当時は労働争議が真っ盛りで、私の入社前年の春闘では労働組合は49日、入社時には19日のストライキを決行していたんです。
マルクスやレーニンは「貧しい人たちのために」という理想を掲げている。だけど「会社に働きに来ているのにストライキをするなんておかしい」と思った私は、そのことを周囲に漏らしていました。そんな若僧の声がどういうわけか労務管理者に届き、ある時、呼び出しを受けたのですが、その労務管理者こそが岩松保先生だったんです。先生は安岡先生の門弟であり、富士製鉄では柔道部監督も務めていらっしゃいました。ありがたいことに入社以来、先生は何かと私に目を掛けてくださいました。

姫路師友会会長

田中昭夫

たなか・あきお

昭和16年大分県生まれ。大分県立大分工業高校卒業後、富士製鉄広畑製鉄所に入社。48年齊藤鋼材に入社し企業再建などに携わる。平成20年アビノに入社、社長、会長などを歴任。姫路師友会では昭和47年の設立から事務局長を務め、平成21年会長に就任。吟道清峰流猶興吟詠会総本部会長。