2020年4月号
特集
命ある限り歩き続ける
  • 東洋思想家境野勝悟

松尾芭蕉が求めた世界

俳聖・松尾芭蕉は道元禅を深く学んだ求道者でもあった。厳しい漂白の旅の中で、歴史に残る多くの秀句を詠み続けた芭蕉が求めた世界とはどのようなものだったのか。禅の教えに造詣が深い東洋思想家の境野勝悟氏にお話しいただいた。

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世間から見捨てられたものに価値を見出す

確か大学3年生の時だったと思います。一つ上の先輩から「これを読めよ」と勧められたのが鈴木大拙だいせつ先生の『禅と日本文化』という本でした。私が禅の教えに触れたのはこれが最初でしたが、禅が茶道や俳句など幅広い日本文化にも影響を与えたことに興味を覚えながら読み進めると、そこには少年の頃から慣れ親しんだ芭蕉ばしょうの句が紹介されていました。
古池ふるいけ蛙飛かわずとびこむ水のおと
山の中の静かな古池に蛙が飛び込んだ。ポチャンという音が静寂を破り、しばらくするとさらなる静寂が広がった。それまでの私はこの句をそう解釈していました。ところが、大拙先生の解説はそれとはまったく違っていたのです。大拙先生は古池を永遠なる自然の生命の象徴ととらえられました。そして蛙が飛び込むポチャンという音は、永遠の生命から比べれば一瞬に過ぎない人間の一生。つまり、一瞬に過ぎない二度とない人生の時間を嘆き悲しみながら過ごすことのむなしさ……。逆に生を惜しみ感謝しながら生きることの大切さを説いたのがこの句だというのです。

数多い動物の中で私たち人間だけが花をで、音楽を聴き、小説を読み、新幹線や飛行機で旅をして人生を謳歌おうかする喜びを知っています。そういう人間の素晴らしい働きを、なぜもっと生かして人生を意義あるものにしないのか。自分にとって大切なのは、いまこうして生きているということではないのか。これが芭蕉の根底にある考えです。その人生観を知った時、私はとても驚き、心が震えました。坐禅に取り組んでみようと思ったのは、実はこの時が最初でした。

あまり知られていないことですが、芭蕉は鎌倉時代の禅僧で曹洞宗そうとうしゅうを開いた道元どうげん禅師(1200~1253)の思想的影響を受けた俳聖はいせいです。芭蕉は伊賀(現在の三重県)に生まれ、37歳の時に江戸に出て深川に芭蕉庵といういおりを結びます。その頃、広く世にその名を知られていた名僧・仏頂和尚ぶっちょうおしょうに禅の知恵や生き方を学ぶためでした。先ほどの「古池や……」は、芭蕉が大きな悟りを得た頃の句で、人生の捉え方が大きく変わったことがよく分かります。

大悟した芭蕉が、その時に「私が大事にする風雅ふうがとはこういうものだ」と述べてつづったのが次の句です。
枯枝にからすのとまりたるや秋の暮
カラスについて、皆さんはどのようなイメージを抱かれるでしょうか? 自身の美意識の中にカラスが存在しているという人は多くないはずです。それまでの詩歌の世界でウグイスやホトトギスをうたう人はいても、カラスを題材にした人はまずいませんでした。しかし、芭蕉は枯れ枝にカラスが止まっている背後に、極楽浄土を思わせるような真っ赤に燃える秋の夕景を重ねることで、金屏風びょうぶに描かれた墨絵を彷彿ほうふつとさせる美しさを見事に発見したのです。

つまり、芭蕉は皆が嫌って価値を認めない、見捨てられた生存の中に美を見つけ出したのです。新しい価値を見出すことのできる達人という言い方もできるでしょう。

現代人の多くは、世間的な価値観の中で生きています。時には自分の考えを曲げてでも世間的な価値観に合わせて生きようとします。高等教育を受け自立した生活を送りながらも、なお本当に自分がやりたいことは何か、何が価値あることなのかを考えないまま生きている人が多くいます。

もちろん、世間の価値観で生きることは悪いことではありません。

しかし、いざ世間の価値観と合わなくなった時、自分が果たしてどう生きるかを考えておくことも大事ではないかと私は思います。

芭蕉は世間が見捨てたものの中に価値を見出しました。自身も武士という生き方を捨てて、41歳から51歳までは各地を漂泊ひょうはくして旅し、多くの句や紀行文を残しました。私は「枯枝に……」の句に触れる時、「俺の生き方だってそうなんだぞ。自分の価値観で力強く生きているぞ」という芭蕉の誇り高き声が聞こえてくるのを感じます。

東洋思想家

境野勝悟

さかいの・かつのり

昭和7年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、私立栄光学園で18年間教鞭を執る。48年退職。こころの塾「道塾」開設。駒澤大学大学院禅学特殊研究博士課程修了。著書に『日本のこころの教育』『方丈記 徒然草に学ぶ人間学』(共に致知出版社)『芭蕉のことば100選』『超訳法華経』(共に三笠書房)など多数。