2024年10月号
特集
この道より
我を生かす道なし
この道を歩く
対談
  • 愛知専門尼僧堂堂頭青山俊董
  • 臨済宗妙心寺派管長山川宗玄

一筋の道を歩み
見えてきたもの

5歳から仏門に入り、80年以上、求道一筋に生きてこられた青山俊董師。日本一厳しいとされる禅の専門道場・正眼寺の師家であり、4月に臨済宗妙心寺派管長に就任された山川宗玄師。宗派こそ異なるものの、無窮なる道を求めて歩を進められる両老師の体験談や言葉は、禅や仏教に留まらず、私たちの仕事や人生にも通じるものがある。滋味溢れる両老師の話から、生きる上での要訣を掴み取りたい。

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雲水に戻って管長の役割を果たす

山川 きょうは遠路、京都の妙心寺まで足をお運びいただき、恐縮いたしております。

青山 とんでもないことでございます。山川ご老師は4月に臨済宗妙心寺派管長に就任され、お忙しい毎日をお過ごしのことかと思います。91歳の私にとりましては息子のようなもので、大きなお役目を果たされていることをとても嬉しく思っているところです。

山川 いや、私も今年(2024年)で75歳になりますので、おっしゃるほど年齢の開きはございません(笑)。
管長に就任して2か月が経ったところですが、実を申せば管長就任の話は何度もお断りしておりました。私は岐阜の正眼寺しょうげんじの住職や正眼短期大学学長の他にも、福井と和歌山の寺の住職を務めておりますので、管長を引き受けることは難しい状況でした。ただ、どうしてもということでしたので、これらを続けさせてもらうことを条件にお引き受けしたのです。
いまつくづく思うのは、またうんすい(修行僧)に戻ったな、そして雲水そのものがきょうの自分であるという、その一点ですね。雲水の修行のように、何か要請があれば「はい」とその役目を受け実践する姿勢を、管長になったいま改めて自らに課しています。
実はいまから50年ほど前の昭和51年から2年間、私はこの妙心寺で雲水という立場で梶浦逸外いつがい老師のいん師家しけに直接仕え、日常の世話をする僧のこと)をさせていただいておりました。当時、このような立場になるとは予想もしておりませんでしたが、自分でその道を願い望んだわけではないのに、導かれたというのが何とも不思議な気がしています。

青山 人の上に立つ立場ほど勉強になりますし、逆に育てていただいていることを強く感じることが多くあります。私も愛知専門尼僧にそう堂に勤めるようになって60年あまりが経ち、49歳から今日まで堂頭どうちょうというお役目をいただいておりますけど、雲水たちに育てられながら歩むことができたと心からそう実感しております。

愛知専門尼僧堂堂頭

青山俊董

あおやま・しゅんどう

昭和8年愛知県生まれ。5歳の時、長野県の曹洞宗無量寺に入門。駒澤大学仏教学部卒業、同大学院修了。51年より愛知専門尼僧堂堂頭。参禅指導、講演、執筆のほか、茶道、華道の教授としても禅の普及に努めている。平成16年女性では2人目の仏教伝道功労賞を受賞。21年曹洞宗の僧階「大教師」に尼僧として初めて就任。令和4年曹洞宗大本山総持寺の西堂に就任。著書に『道はるかなりとも』(佼成出版社)『一度きりの人生だから』(海竜社)『泥があるから、花は咲く』(幻冬舎)『あなたに贈る人生の道しるべ』(春秋社)など多数。

渡すより渡されっぱなしの人生

青山 山川ご老師がお話しされたように、人生には「授かりの人生」と「選ぶ人生」があるように思います。よく申し上げることではありますが、私の場合は「授かりの人生」から始まりました。
私は愛知の一宮いちのみやで生まれました。病身だった父が病気が軽くなった45の時につくった子で、久しぶりに子供ができたことを両親は大変喜んでくれました。
ところが、おんたけさんと呼ばれる信仰の大先達だいせんだつだった、亡くなったお祖父さんが御講ごこうの座に出てきましてね。「今度、おなかにできた子は出家するだろう」とたくせんがあった。私が生まれた時も「この子は信州で出家するだろう」と細かい一生の予言まであったそうです。それを伝え聞いた尼僧の叔母が、私が5歳になるのを待って信州の曹洞宗そうとうしゅう無量寺むりょうじから迎えに来たというのがことの次第です。

山川 5歳の時から親元を離れて修行を始められたのですね。

青山 はい。甘えん坊で5歳まで母のおっぱいを飲んでいたらしいのですが、それなりの覚悟があったのか、自分からお地蔵様に「おっぱいを預けます」と約束して信州に向かったと聞いています。そこからの修行人生でございました。
東京での学生生活を終えて尼僧堂に講師としてまいりましたのが31歳の時。その少し前に『へきがんろく』にある「じょうしゅうを渡し馬を渡す」という則をたまたま読んで深く感じ入るものがありまして、この言葉をこれからの指針にしていこうと思いました。
趙州和尚は中国唐代の禅僧で、80歳を過ぎて観音院の住職になられるのですが、その寺に行くのに必ず橋を渡らなきゃならない。「この橋はどのようなものか」と問われた和尚が答えたのが「驢を渡し馬を渡す」、つまりロバでも馬でもごのみなし、落ちこぼれなしにすべてに救いの手を差し伸べる橋であるという言葉なんです。
私共の修行道場には国内外からいろいろな人がやってきます。人間的な感情では「この人は気に入った」「気に入らぬ」と思うこともありますが、どのような人も選り好みなし。「上手に橋を渡る」とか「渡らぬ」とか条件もなし。すべて無条件で救いの手を差し伸べる。そういう尼僧でありたいとずっと心してまいりました。
ところが、振り返ってみますと、結果的には渡すどころか渡されっぱなしの人生でございましてね。それでこんな歌を詠みました。
驢を渡し馬を渡す橋にならばやと願えども渡さるるのみの吾にて
山川 青山ご老師の実感のこもった歌ですね。

青山 この間も『論語』を読んでいましたら、孔子こうしの弟子のこうが「(同じ弟子の)がんかいは一を聞いて十を知る人だが、私は一を聞いて二を理解する程度です」と語っている言葉に出合いました。
私はさわこうどう老師(明治から昭和を代表する曹洞宗の禅僧)をはじめ多くの師家方に参ずるのに十の話は十とも聞こうという気持ちでおりましたけど、残念ながら受け皿の大きさでしか受け取れませんから、子貢の言葉を読んで「自分は一を聞いて二どころか、十のうち一しか受け止められていなかった」といたく反省いたしました。
しかしながら、これが雲水など人前でお話しする立場になりますと、十しゃべろうと思ったら十五の準備が要りますわな。聞く以上の厳しい修行が求められる。その意味でも、雲水のおかげ、雲水によって育てられていまの私があると心からそう思っておるんです。

臨済宗妙心寺派管長

山川宗玄

やまかわ・そうげん

昭和24年東京都生まれ。埼玉大学理工学部卒業。49年野火止平林僧堂の白水敬山老師について得度。同年正眼僧堂に入門。平成6年正眼寺住職、正眼僧堂師家、正眼短期大学学長。令和6年4月より全国約3,300寺を擁する大本山妙心寺派管長に就任。著書に『生きる』『無心の一歩を歩む』『無門関提唱』(いずれも春秋社)『禅の知恵に学ぶ』(NHK出版)『くり返し読みたいブッダの言葉』(リベラル社)など。