2017年10月号
特集
自反尽己じはんじんこ
鼎談
  • ANAホールディングス相談役大橋洋治
  • シップヘルスケアホールディングス会長古川國久
  • 山田方谷六代目直系子孫、山田方谷研究家野島 透

山田方谷やまだほうこくの言葉

その自反尽己の人生に学ぶ

幕末、独自の藩政改革により破綻寸前だった備中松山藩を見事に再建した山田方谷。その方谷の言葉を経営の指針にしてきたANAホールディングス相談役・大橋洋治氏と、シップヘルスケアホールディングス会長・古川國久氏。この度弊社から『運命をひらく山田方谷の言葉50』を上梓した6代目直径子孫・野島 透氏を交えて、報告の人生や志について語り合っていただいた。現代にも息づく方谷の教えの要諦とは──。

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「方谷さんのようになりなさい」

野島 2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智先生のインタビューがNHKで放送された時、私は思わず小躍りしそうになりました。というのも、先生の座られている後ろに山田方谷の言葉「至誠惻怛」の色紙が掛けられていたんです。
大村先生とはそれまで面識はありませんでしたが、インタビューに感動し以前私が書いた方谷の本をお送りしたところ、ご丁寧なお手紙をいただき、このたびの『運命をひらく山田方谷の言葉50』(致知出版社)の発刊に当たっては素晴らしい序文までいただくことができました。

大橋 大村先生のインタビューは私も拝見しましたが、「至誠惻怛」の色紙が掛けられていたのには驚きました。至誠とは真心、惻怛とは人を思いやる情の心です。先生がこの言葉を方谷に学び、常に心に刻んで信条とされてきたことを知った時は嬉しかったですね。

古川 「至誠惻怛」をこれまで経営の指針にしてきた私も、お二人と全く同じ思いで拝見させていただきました。

野島 きょうはこの本の発刊を記念する意味も込めて、方谷に造詣の深いお二人とこうして語り合えることをとても嬉しく思います。私のほうで進行役を務めさせていただきますが、方谷との出会いというところから、まずはお話を進めさせていただけたらと。

大橋 では、最年長の私から口火を切らせていただきますが、方谷との結びつきという点では深いものがありましてね。私の一家は終戦後、旧満洲から引き揚げて、しばらくは父の実家に転がり込んでいたのですが、その後、私が小学校2年の9月に縁あって方谷の出身地・岡山の高梁に移り住むことになったんです。父の転勤で高梁を離れる6年生の1月までここにおりました。 借りていた家というのがある名士の別邸で、夜になると離れから酒盛りの声が聞こえてくる。いつも詩吟をやっている人がいて、誰だろうと思って母に聞いたら「山田方谷という昔の偉い人がいて、その人のお孫さん(山田準さん)だよ」と教えてくれました。
学校の校庭に胸像がありましたから私も方谷の名前だけは知っておりましたが、方谷という人物のことを意識するようになったのはその頃からですね。
6年生で高梁を離れても、恩師や友達とは連絡を取り合っていましたから、高梁との縁は切れないでその後も続きました。

古川 私は高梁の隣、新見の生まれです。父は戦時中、呉にある海軍工廠で働いていたのですが、戦況の激しさを感じ取った母方の祖母が家族を新見に連れ戻し、そこで私が生まれたんです。
父親はとても厳格な人で「一番になって初めて分かることがある。一流を目指せ」が口癖で、失敗すると「抜け策!」と厳しく叱りつけられました。一方で母親はとても温和な人でした。学芸会があると聞くと、手間を厭わず衣装を縫ってくれるような自慢の母でしたね。その母がいつも私に言っていたのが「方谷さんのようになりなさい」という言葉だったんです。

野島 ああ、「方谷さんのようになりなさい」。

古川 テレビや冷蔵庫はない時代でしたが、幸せな家庭でした。しかし、私が小学3年生の時に倉敷の産婦人科に入院していた母が麻酔の事故で亡くなってしまうんですね。翌年、新しい母親が嫁いできまして、長男の私は祖母(実母の母)に呼ばれて「あなたは長男なので、あなたからお母さんと呼びなさい」と諭されたのをよく覚えています。
そしてその2年後、今度は父親が結核を治療する際の輸血の事故で亡くなってしまう。小学生で両親を失うという、考えてみたら数奇な運命でしたけれども、後年、方谷もまた14歳の時に母親を、翌年には父親を亡くしたことを知ってお互いの境遇が似ていることに共感しました。両親を亡くした方谷が、父親がやっていた農業や菜種油製造の仕事を継ぎ、夜は黙々と勉学に励む姿は、いまでも私の励みとなっています。

ANAホールディングス相談役

大橋洋治

おおはし・ようじ

昭和15年旧満洲(現・中国黒竜江省)生まれ。39年慶應義塾大学法学部卒業後、全日本空輸に入社。ニューヨーク支店長、常務取締役人事勤労本部長、販売本部長、副社長を経て、平成13年社長に就任。17年会長、27年より現職。

山田方谷を語り続ける

野島 私の場合、方谷は先祖に当たりますから、家にはたくさんの書物があって、その存在が生活の中に溶け込んでいた感じですね。「子孫なのになぜ野島なのか」と聞かれることもあるのですが、それは祖父が野島家の養子になったからです。方谷の義孫で私の曾祖父に当たる山田準が山田家を相続し、その三男を野島家に養子に出しているんです。
そういう家庭環境にもかかわらず、子供の頃、方谷にさほど関心はありませんでした。しかし、大蔵省(現・財務省)に入省し、小泉内閣の経済財政諮問会議ができた時に企画官というポストで諮問会議に派遣されましてね。そこで衆議院議員(当時)の小野晋也先生のお話を聞く機会がありました。
小野先生は「日本はアメリカのものを取り入れることばかりに熱心だけれども、日本にもよさがあるじゃないか」と述べた上で、偶然にも方谷の話を始められるんです。「財務省の皆さんも方谷にもっと学ばないといけない」と叱咤激励されました。その後に私が方谷の子孫である旨を伝えると、驚いた表情で「それならなお、しっかり学ぶべきだ」と。
私は当時39歳でしたが、方谷の理念は現代社会にも役立つのではないかと思いました。本を書いて世に広めようと思ったのはそこからですね。方谷の過去の業績をどのように現代に生かしたらいいかを考えていた時に、大橋相談役、古川会長とのご縁をいただきました。

大橋 そうでしたね。

野島 大橋相談役が経営危機にあった全日空を立て直され、古川会長が数人で始めた会社を1万人規模の会社に成長させられたバックボーンに方谷さんの教えがあることを知り、「方谷の教えが本当に生かせるのだろうか」と少し疑心暗鬼になっていた気持ちを一掃することができたんです。

シップヘルスケアホールディングス会長

古川國久

ふるかわ・くにひさ

昭和20年岡山県新見市生まれ。39年岡山県立倉敷商業高校卒業。西本産業(現・キヤノンライフケアソリューションズ)入社。同社取締役営業部長を最後に、平成4年シップコーポレーション設立。同21年持ち株会社シップヘルスケアホールディングスに移行し社長に。26年会長に就任。