2018年3月号
特集
てん ざいしょうずる
かならようあり
対談
  • まんまる笑店社長恩田聖敬
  • 仙拓社長佐藤仙務

絶望を乗り越えた
先に見えてきたもの

35歳の若さでJリーグ・FC岐阜の社長に就任すると同時に筋萎縮性側索硬化症という難病を発症した恩田聖敬氏。10万人に1人といわれる難病・脊髄性筋萎縮症を持って生まれてきた佐藤仙務氏。ともに重度障碍者の身でありながら、数々の絶望を乗り越えて、自ら会社を立ち上げ、道を切り拓いてきた。二人が語り合う、絶望の乗り越え方、そして絶望の先に見えてきた使命——。

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恩田氏の言葉は、秘書・坂田勇樹氏による復唱や口文字の手段で、一語一語丹念に、いま出せる精いっぱいの声で伝えられた。

出逢いは1通のメールから始まった

佐藤 恩田さんと初めて出逢ったのは、確か2016年の年明けだったかと思います。恩田さんからメールでご連絡をいただいて。

恩田 そうでしたね。ALS(筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)の症状が進行したことで、当時務めていたJリーグ・FC岐阜の社長を辞めざるを得なくなり、これから先どうしようかと思っていた時でした。
ちょうどその時、妻が障碍しょうがいがありながら経営者として活躍されている佐藤さんの記事を見つけ、私に教えてくれたんです。それで何かヒントをもらえればと思ってメールを送ったら、びっくり、30分と経たないうちに、佐藤さんから電話でご連絡をいただいた。

佐藤 恩田さんの当時の秘書の方が電話に出られて、じゃあ、ぜひお会いしましょうってことになって、うちの事務所にお越しいただいたんでしたね。実はメールをいただく2週間ほど前、テレビで恩田さんのことを拝見し、僕もお会いしたいと思っていたんです。

恩田 本当に偶然の出逢いです。実際にお会いし、すごく芯の通ったぶれない方だなぁ、電話にしても経営におけるスピードの重要性をよく分かっていらっしゃって、若いのにすごい方だなぁ、というのが佐藤さんの第一印象でした。

佐藤 僕の中では、人生の途中から障碍や病気を持った人は、いままでの生活とのギャップから完全にふさぎ込み、もう外に出たくないっていう人が多いような印象を持っていました。でも、なぜでしょうね、恩田さんには、すごいパワーがあるというか、自分は自分であり、障碍は障碍だとちゃんと分けて、ふさぎ込まずに将来のことをしっかり考えておられる。
もし僕が恩田さんの立場だったら、果たして同じようにできるかと考えてしまいます。そうしたことからも、恩田さんはきっと僕にはないものをたくさん持っている方なんだろうなと思って、最初から本当に魅力を感じました。

恩田 私ももちろんALSになった時はへこみましたよ。ただ、へこんでも、それで病気が治るわけではないと思っていたんです。

佐藤 その出逢いの後、恩田さんはALSに負けることなく「まんまる笑店」を起業されました。本当にすごいことだと思います。

恩田 まんまる笑店では、FC岐阜の元社長としての経験、ALSに罹患りかんしてからの体験を講演や執筆という形で提供しています。
いまはまだ、お声掛けいただいた先で講演をしたり、新聞や雑誌に取り上げてもらうことで、まず継続的な運営ができるベースをつくっていこうという段階です。
それプラス、健常者の立場も障碍者の立場も分かる者として、福祉や医療現場の改善、ALSをはじめとする難病の方にお役に立てる活動にも取り組みたいと思っています。他にも、街や施設づくりの提言、健常者も障碍者もいらっしゃるイベントのアドバイザーなどいろんな話を進めています。
佐藤さんは、「仙拓せんたく」を立ち上げてから何年になりますか?

佐藤 2011年、19歳の時に起業したので今年(2018)7年目になります。立ち上げた時から名刺とホームページ制作を主に手掛けてきたんですけど、最近特に力を入れているのが、椙山すぎやま女学園大学と協力して進めている障碍者のためのICT(情報通信技術)支援です。

恩田 ICT支援ですか。

佐藤 障碍者の方は、パソコンを操作しようと思っても、皆さんが使っているようなマウスやキーボードを使うことはできない場合が多くあります。これまではそれぞれの障碍に応じて自分に合ったものを工夫して使っていたんですけど、いま視線だけでパソコンが操作できる技術とか、どんどん新しい技術が出てきています。でもそうした情報が必要な方に全然届いていない状況があるんですね。
なので、これからは会社の事業とは別に、障碍のある子供たちを中心に新しい技術について教えていくことにも注力し、障碍者が当たり前に働ける社会の実現に貢献していきたいと思っています。

まんまる笑店社長

恩田聖敬

おんだ・さとし

昭和53年岐阜県生まれ。京都大学大学院航空宇宙工学修了。Jリーグ・FC岐阜の社長に史上最年少の35歳で就任。就任と同時期にALS(筋萎縮性側索硬化症)発症。平成27年末、病状の進行により職務遂行困難となり、社長を辞任。翌年、クラウドファンディングで資金を募り、株式会社まんまる笑店を設立。以後、全国で講演や執筆等を行う。佐藤氏との共著に『絶望への処方箋』(左右社)がある。

妻の言葉が生きる力をくれた

佐藤 きょうはせっかくの機会ですので、恩田さんの歩みをお話しいただけますか。恩田さんがALSになったのは2013年……。

恩田 ええ。2013年の年末に実家に帰省した時、お 箸を持つ手に力が入らないなぁと、少し違和感を覚えたんです。いま振り返ると、それがALSの兆候ちょうこうでした。
当時、私はFC岐阜のスポンサーであるJトラストという会社で経営戦略部長を務めていました。しかしFC岐阜は毎年最下位争いを演じていて、財政的にも厳しかったので、人的支援のために社長を送り込む話を持ち掛けられたんです。それで私は2014年4月にJトラストを退社、35歳でFC岐阜の社長になりました。
一応、社長になる前に検査を受けて、脳に異常がないことは分かっていました。ただ、FC岐阜のチームドクターに体に異常があるかどうか診てもらったところ、一度きちんと検査入院をして、体中を診てもらったほうがいいと。
その翌月に検査入院をしたのですが、そこでALSの可能性が高いとの診断を受けたんですね。

佐藤 社長になられて、まさにこれからという時に。

恩田 ALSという病気について少し説明しますと、ALSは筋肉を動かす運動神経のみが侵され、全身の筋肉がだんだん弱くなっていく難病で、原因は不明です。
病気の進行によって自力歩行ができなくなり、話せなくなり、やがては自力で呼吸できなくなってしまい、人工呼吸器が必要になります。ただ、知覚や思考は奪われません。現在、日本に約9,000人の患者がいると言われています。遺伝性ではないので、誰にでも起こり得る病気です。

佐藤 突然の難病の宣告をどのように受け止められましたか。

恩田 自分の体が動かなくなる未来を想像し、まさに絶望のふちに落とされた気持ちになりました。そして真っ先に頭をよぎったのが妻や幼い子供たちのことでした。
妻はどう思うだろうか、私を見捨ててしまうのではないか。幼い子供をどう育てればいいのか、様々な思いが頭の中を巡りました。
でも、悩みに悩んだ末、妻に単刀直入に病気のことをすべて話しました。すると妻は私から目をらさずに、「あなたに生きる意思があるなら、一緒に生きていきましょう」と言ってくれたんです。

佐藤 あぁ、奥様が。

恩田 いまも妻の存在は最大の支えですね。ただ、実際に生活していく上では、妻と何度もぶつかりました。私が少しでも元気をなくしたり、ボーっとしていると「病気を言い訳にしないで!」「父親として子供の面倒を見て!」「あなたなら、ALSでもできる方法を考えられるでしょう」と叱られるんです。もしかすると、病気の前より厳しいかもしれません(笑)。

仙拓社長

佐藤仙務

さとう・ひさむ

平成3年愛知県生まれ。4年SMA(脊髄性筋萎縮症)と診断される。22年愛知県立港特別支援学校商業科卒業。当時障碍者の就職が困難であることに挫折を感じ、ほぼ寝たきりでありながら、23年ホームページや名刺の制作を請け負う合同会社「仙拓」を立ち上げ、社長に就任。著書に『寝たきりだけど社長やってます』(彩図社)、恩田氏との共著に『絶望への処方箋』(左右社)がある。