2018年3月号
特集
てん ざいしょうずる
かならようあり
  • 共立女子大学国際学部教授宇野直人

李白の歩いた道

「漂泊の詩人」と称され、「天 我が材を生ずる 必ず用あり」の一節で有名な「将進酒」の生みの親である詩人・李白。その生涯は、求職と失意の遍歴に彩られている。長年李白の作品に親しんでこられた宇野直人氏に、その数奇な生涯と、「将進酒」の名句が生まれた背景をお話しいただいた。

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豪快にして野放図

中国を代表する詩人の一人で、生涯のほとんどを旅に生きたことから「漂泊ひょうはくの詩人」とうたわれた、李白りはく。その詩作の才能は同時代を生きた人々に愛され、作品の多くは平安時代の頃から日本人にも親しまれてきました。

李白の成長した時代は、6代皇帝玄宗げんそうの「開元の治」に象徴されるように、まさに唐王朝の全盛期でした。世間の暮らし向きにも余裕が生まれ、人々の心が文化的なものに向くようになった時代だったと言えるでしょう。
 
詩人たちの間で、自然を詠んだ詩や「自照じしょうの詩」といって自らの内面を詠んだ詩が増えていったのは、そのような時代背景によるものだと思います。また、書斎で一人机に向かって詩作をするのではなく、宴会や園遊会などの場において即興でつくる「機会詩」がますます増えたのもこの頃でした。絶句などはその代表的な一つで、李白が得意としたものです。
 
李白の生い立ちに関しては不明な点も多くありますが、ここで簡単に触れてみたいと思います。西域の地・砕葉スヤブで8世紀初頭に生まれた李白には、出生に関してある逸話が語り継がれてきました。李白が生まれる直前、生母がよいの明星(金星)の夢を見たというのがそれで、金星のことを太白星と呼ぶことから、名前に「白」とつけたというのです。
 
また、言い伝えによれば李白は5歳にして十干十二支じっかんじゅうにしを暗唱し、10歳には諸子百家しょしひゃっかの思想書を読んでいたといいます。おそらく裕福な商人であった父親のもと、文化的、教育的気風に富んだ家風で育ったことが大きかったのでしょう。李白が読書好きだったことは、中国各地に李白読書室、李白読書台といった史跡が残されていることからもうかがい知ることができます。
 
生まれ故郷から中国南西部のしょく(現・四川省)に一家で移ってきたのは、李白5歳の時のこと。当時、蜀には道教の修験者しゅげんじゃ(道士)が多く、その影響からか李白が10代の頃には仙人の世界にあこがれて山にもったり、不老長寿を研究する道士たちと交際していたと伝えられています。また、蜀の地には地位や名誉、お金の有無にかかわらず、強きをくじき弱きを助けるといった任 侠にんきょうの士も多くおり、そういった人物とも李白は好んで接していました。
 
このように豪快にして野放図のほうずな10代を送ったことが、詩人李白の素養を大きく育てたのではないかと私は思うのです。

共立女子大学国際学部教授

宇野直人

うの・なおと

昭和29年東京都生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。著書に『中国古典詩歌の手法と言語』(研文出版)『漢詩の歴史』(東方書店)『漢詩名作集成/中華編』(明徳出版社)、共著に『李白』『杜甫』(ともに平凡社)。