2024年2月号
特集
立志立国
対談2
  • 作家山崎光夫
  • ことほぎ代表白駒妃登美
明治人の気概に学ぶ

福澤諭吉と
北里柴三郎が
目指したもの

我が国の文明開化に大きな影響を与え、その啓蒙思想が日本人の精神形成の礎となった福澤諭吉。若くしてドイツに渡り破傷風菌の純粋培養や血清療法の確立など細菌学の分野で多大な功績を上げた北里柴三郎。高い志を立てて困難に挑戦し、日本を近代化へと導いた明治人の気概を象徴するのが、まさにこの2人ではなかろうか。作家・山崎光夫氏と、〝博多の歴女〟白駒妃登美氏の対談を通して見えてくる2人の偉人の志と生き方に学ぶ。

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偉人は人生を変える誰かと出会っている

白駒 山崎先生、初めまして。きょうはよろしくお願いいたします。

山崎 こちらこそ。福岡から上京いただいたと聞いて、恐縮しているところです。

白駒 とんでもないことです。私は山崎先生が書かれた『ドンネルの男 北里柴三郎』を拝読して非常に感銘を受けまして、お会いできるのを楽しみにまいりました。
この小説を読んでまず驚いたのは、北里柴三郎と彼を取り巻く人々とのつながりが、これ以上ないぐらい丹念に生き生きと描かれていることでした。一方で柴三郎が取り組んだ医学の専門的な内容も非常に詳しく記されています。人間ドラマと専門分野のどちらにも偏ることのないストーリー展開に感じ入りながら読み進めました。先生にお会いして、まずそのことをお伝えしたいと思っていたんです。

山崎 力が及ばないところもありましたが、そう言っていただけてとても光栄です。
意外に思われるでしょうが、実は柴三郎の全生涯をテーマにした小説はこれまでありませんでした。唯一、僕が書いた小説だけだと思います。野口英世にまつわる小説や伝記、絵本の類が僕が知る限り350種類くらいありますので、それと比べても実に対照的と言っていいでしょうね。
僕はもともと医学をテーマにした作品を手掛けていたものですから、「誰も書かないなら、柴三郎の78年の生涯を俺が書くしかないな」と大それたことを考えていました。これが20年ほど前のことで、当時は柴三郎のくんとうを受けられた方がまだご存命でした。ところが、いざ書こうとすると柴三郎に関する資料が意外と少ないんですね。
どうしたものかと思っていたところに、柴三郎の金庫番を長年務めていたばたしげあきの日記が見つかったという話が飛び込んできました。田端は非常に几帳面きちょうめんな人で柴三郎とのやりとりなどを事細かに書き留めていた。幸いにもこれを閲覧できたことで『週刊東洋経済』に連載を開始し、『ドンネルの男 北里柴三郎』をじょうすることができたんです。

白駒 書き終えて、何かお感じになることはありましたか。

山崎 僕は伝記を読むのが好きで、それなりに読んでいるのですが、ジャンルを問わず名を成した人は人生を変える誰かと必ず出会っているんですね。恩人の言うことを素直に聞いて伸びていき、挫折をバネにさらに大きく飛躍している。そういう縁に恵まれることなく大成した偉人は皆無といっていいと思います。
柴三郎もまた故郷・熊本でC・G・マンスフェルトというオランダ人軍医と出会って志を固め、ドイツ留学時には大恩人である細菌学の世界的権威・ローベルト・コッホのもとしょうふうきんの純粋培養という世界的発見に至っている。帰国後は福澤諭吉をはじめ有力な支援者を得て「近代日本医学の父」と仰がれるまでになるわけです。いつ誰と出会うか、これは頭で計算して分かることではありません。

白駒 おっしゃる通りです。私は幼い頃、祖母と一緒に過ごす時間が長かったのですが、祖母の口癖が「、おてんとうさまが見ているよ」でした。私は当時その言葉を、誰も見ていなくても悪いことをしてはいけないという戒めとして、ちょっと怖いイメージで捉えていましたが、成長するにつれて別の意味もあると気づいたんですね。
「人生にはよい時もあれば悪い時もある。でも、どんな時もお天道様だけはおまえを見捨てずに見守ってくださる。だから、たとえ思い通りにいかない時でも、ふて腐れたり投げやりになったりせずに、信じる道を、勇気を出して、安心して歩いていきなさい」という祖母の励ましだったのかなって。
柴三郎の人生が、まさにそうでしたよね。順調な時もピンチに見舞われた時も、常に自分の信じる道を、真心を込めて歩んでいたからこそ、天が誰かを介して手を差し伸べたのではないでしょうか。

作家

山崎光夫

やまざき・みつお

昭和22年福井県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、放送作家、雑誌記者を経て小説家に。主に医学薬学関係の小説、ノンフィクション、エッセイを発表している。『安楽処方箋』(講談社)で小説現代新人賞受賞。『藪の中の家──芥川自死の謎を解く』(文藝春秋)で新田次郎文学賞受賞。他に『ドンネルの男 北里柴三郎』(東洋経済新報社)『鷗外 青春診察録控』(中央公論新社)など多数。日本文芸家協会会員、日本医史学会会員、福井ふるさと大使、森鷗外記念会評議員、新田次郎記念会評議員なども務める。

福澤、北里は人間としての理想像

白駒 私が福澤諭吉に魅せられたきっかけは、中学3年生の時に『ふくおうでん』を読み、衝撃と感動を覚えたことです。内容ももちろん面白いのですが、それ以上に魅了されたのは、その語り口でした。まるで諭吉がすぐ傍で語ってくれているような読みやすい文章で、私はそれを読みながら、雲の上の存在だった諭吉がすぐ近くにまで降りてきてくれたように感じ、親近感を抱いたんですね。
当時、中高一貫の女子校に通っていた私が「福澤諭吉が創った慶應で学びたい」と思い、急に進路を変更し受験勉強を始めたのも、そこからでした。

山崎 確かに難しい内容を易しく書くというのは難しいですね。具体例で言うと、かいばらえきけんの『ようじょうくん』です。専門的な医学のことも書かれてはいるものの、易しくて分かりやすいというので、幕末に日本に来た宣教師たちが布教の手本にしているんです。

白駒 諭吉の「分かりやすさ」へのこだわりは、こんなエピソードにも表れています。自分が書いた文章をお手伝いさんに読んでもらい、意味が分かるかどうかを確認したというんです。どんな名文でも相手に伝わらなかったら意味がないですものね。
いま山崎先生が話題になさった貝原益軒、そしてきょうのテーマである福澤諭吉、北里柴三郎には共通点があります。3人ともそれぞれの専門分野で活躍された方々ですが、皆、人格的に円満と言いますか、人間としてこうありたいという理想の姿の持ち主ではないかと思います。それに女性という視点から見た時、3人とも夫婦仲がよかった。そのあたりも、大変好ましく感じています。

山崎 そうですね。柴三郎の夫人はとらといい、後に日銀総裁になった松尾しげよしの娘です。柴三郎は東大生として上京したばかりの頃、臣善の弟が営む店で牛乳配達をしながら学費を稼いでいました。配達だけでなく帳簿などもすべてできるというのに感心して、臣善は乕と結婚させるわけです。
そして大正3(1914)年、柴三郎が61歳の時のことですが、それまで内務省管轄だった国立伝染病研究所が文部省に移管されることが決まりました。衛生行政と一体の伝染病の研究は内務省管轄でなくてはならないという信念があった柴三郎は国の方針に怒って所長を辞し、新たに私立北里研究所を設立します。これは伝研移管事件と呼ばれ、柴三郎の大きな転機となる出来事の一つでした。

独立した柴三郎の許には教え子たちもたくさん集まってくるのですが、先立つものがない。寄付も思うように集まらない。この時、乕は金庫番の田端と共に蓄えていた30万円という当時でいえば大変な貯蓄を研究所設立のために拠出するんです。この金がなかったら北里研究所(現在の学校法人北里研究所)は設立できなかったでしょう。柴三郎にとって乕の内助の功はそれほど大きいものでした。

ことほぎ代表

白駒妃登美

しらこま・ひとみ

昭和39年埼玉県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、日本航空に入社し、平成4年には宮澤喜一首相訪欧特別便に乗務。24年に㈱ことほぎを設立、講演活動や著作活動を通じ、日本の歴史や文化の素晴らしさを国内外に向けて広く発信している。天皇陛下(現在の上皇陛下)御即位三十年奉祝委員会・奉祝委員、天皇陛下御即位奉祝委員会・奉祝委員を歴任。現在、教育立国推進協議会のメンバーとして活動中。著書に『子どもの心に光を灯す日本の偉人の物語』『親子で読み継ぐ万葉集』(共に致知出版社)など多数。