2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
インタビュー
  • 日本電産会長永守重信
後世に伝えたい

稲盛さんの創業者魂

共に京都の地で会社を興し、1代で日本を代表する1兆円企業へと導いてきた二人の経営者がいる。稲盛和夫氏と永守重信氏。同じ申年生まれで年齢はひと回りの差があり、永守氏は常に稲盛氏の背中を追いかけ、目標として仕事に邁進してきたという。稲盛氏が亡くなられたいま、永守氏は何を思い、これからどう歩んでいこうとしているのか。約40年に及ぶ稲盛氏との付き合いの中で受けてきた影響を交えつつ、胸の内を明かした。

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大きな失望感に苛まれて

——先般、稲盛和夫さんが90歳で亡くなられました。訃報に接した時の思いをお聞かせください。

私はあの方の背中を見ながらずっと経営をしてきて、絶えず後ろから「追いつき、追い越せ」という考えでいましたから、ものすごく大きな失望感でした。100歳くらいまでは生きられるんじゃないかと思っていましたので、稲盛さんが亡くなることは想定していなかったです。突然、指針となる存在を失って、困ったな、なんでこんなに早く去ってしまわれるんだという思いでしたね。

——稲盛さんとは約40年のお付き合いになりますね。

初めて稲盛さんに会った時の印象はいまも1番強く残っています。京都銀行の方に「稲盛さんという方がおられて、若くして会社を伸ばしておられる。一度食事でもしてお会いになりませんか」と紹介されたのがきっかけでした。日本電産を創業し10年ほど経った頃ですから、私が39歳、稲盛さんが51歳だったと思います。
夕食を一緒にさせていただき、10時半くらいに終わって、当然私は会社に帰って、少なくとも12時くらいまで仕事をするつもりでいました。そうしたら、稲盛さんも会社に帰るとおっしゃる。私はてっきり自宅に帰られると思っていましたから、それを聞いてびっくりしたんです。
ああ、この人はいままで会ってきた経営者と全然違うなと。同時に、稲盛さんと話をする中で私の思いと同じことをおっしゃったので、ああ、自分の経営のやり方は間違っていないとも感じました。

——以来、稲盛さんを意識するようになった。

初めて京セラの工場を見に行った時、当時の京セラは2,000億くらいの売上高でした。ところが、工場の壁には「1兆円企業」というスローガンが書いてありましたよ(笑)。私も日本電産を創業した年に、50年計画で売上高を1兆円にすると社員に言っていましたから、常に高い目標を掲げる姿勢はそっくりだと思いましたね。
私は東京に出張する時、朝一番の新幹線で行き、最終の新幹線で帰っていましたが、当時はやましなに京セラの本社がありまして、新幹線からよく見えるんです。それで夜11時半くらいに山科を通りますと、まだ京セラのビルは電気がこうこういているんですよ。
その頃は携帯電話なんてありませんから、京都駅に着いたら公衆電話で会社にすぐ連絡して、「頑張っているか」と聞くと、「いま昼飯です」って(笑)。そうやって京セラより早く帰らないと決め、一所懸命に働く日々でした。

日本電産会長

永守重信

ながもり・しげのぶ

昭和19年京都府生まれ。42年職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科を首席で卒業。48年日本電産を設立、社長に就任。国内外で積極的なM&A戦略を展開し、世界No.1の総合モーターメーカーに育て上げた。現在、会長兼最高経営責任者(CEO)。平成30年京都先端科学大学を運営する学校法人永守学園理事長に就任。著書に『成しとげる力』(サンマーク出版)『永守流経営とお金の原則』(日経BP)『人生をひらく』(PHP研究所)『大学で何を学ぶか』(小学館)など。