2016年9月号
特集
恩を知り
恩に報いる
インタビュー②
  • 蔡 焜霖

深い絆で結ばれた
日本と台湾

弱虫で本の虫だった少年時代を送った蔡 焜霖氏は、時代の荒波に翻弄され、言われなき罪によって青春時代に服役刑に処せられるなど、波乱の人生を歩んできた。戦前戦後の台湾を見てきた時代の生き証人として、その数奇な半生を振り返っていただくとともに、50年に及ぶ植民地時代、そして戦後台湾の発展にも寄与した日本との関係をお話しいただいた。

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正直であれ、誠実であれ

──蔡さんは日本が統治していた時代の台湾にお生まれで、80歳を超えられたいまも台湾のために、様々な活動に取り組まれているそうですね。

いま私が取り組んでいることの一つに、国家人権博物館の創設があります。戦後、台湾は国民党による激しい弾圧(白色テロ)のもと、前途有望な若者たちが次々と殺されていきました。これは明らかに人道に反することですよ。ところが、それが誰の指図によるものかはこの70年間ずっと明らかにされてきませんでした。
いま台湾はようやく自由民主の道を歩もうと大きく動き出していますが、その歩みをしっかりとしたものにするためには、やはりそうした過去をきちんと清算しなければなりません。それには当時の真相究明は不可欠であって、真実を台湾人に伝える場として国家人権博物館はぜひとも必要だと思っているんです。

──蔡さんをそこまで突き動かすものとは何なのでしょうか。

日本の統治時代、修身の教育で最も強調されたのが、「正直であれ、誠実であれ」でした。実際、その当時は正直であれば誰もが平穏に暮らすことができました。ところが国民党が入ってきたことで、正直であっては生きられなくなってしまったのです。

──正直では生きられない。

国民党の言うことはどれも上辺は綺麗事でも、実際にやってきたことといったら若く正義感に満ちた正直者を捕らえては監禁し、殺害することでした。いまも心の奥底にあるのは、無念の思いで亡くなっていった多くの先輩、同輩たちへの思いです。

──蔡さんはいまも亡くなられた多くの方々への思いを背負って、活動を続けられているわけですね。

はい。もっとも私は元来気弱な人間であって、本当は人目に立つようなことは苦手なタイプだったんですよ。それでもいまこうして活動しているのは、台湾を愛しているからであり、その根底には台湾発展のために尽くしてくれた日本に対する感謝の念があるからにほかなりません。

蔡 焜霖

さい・こんりん

昭和5(1930)年日本統治下の台湾・台中州生まれ。18(1943)年台中第一中学校に入学。後に学徒兵として召集、台中の陸軍航空隊飛行場駐屯時に終戦を迎える。1950年白色テロ影響で懲役10年の刑に処せられ、火焼島(現・緑島)で服役。1963年国華広告公司(現・電通国華)に入社。1966年児童雑誌『王子』を創刊。国泰生命保険に勤務後、再び国華広告公司に入社。副社長、社長、副会長を歴任後、1999年に退任。現在は国家人権博物館の創設に尽力するとともに、白色テロ事件の真相究明に挑み続ける。