2017年6月号
特集
寧静致遠
対談
  • 元厚生労働事務次官村木厚子
  • スポーツジャーナリスト増田明美

諦めなければ
道は開ける

人生には突如として思いがけない困難に遭遇することがある。官僚としてキャリアを重ねる中、身に覚えのない罪で逮捕、拘留された村木厚子さん。陸上長距離の天才少女として脚光を浴びるも、オリンピックで大きな挫折をした増田明美さん。お2人は訪れた困難とどう向き合い、乗り越えてこられたのか。ご対談を通じて、寧静致遠という言葉が教える

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年を取るのも悪くない

増田 私、村木さんの『あきらめない』というご本にすごく勇気をいただいて、ぜひ一度お目にかかりたいと思っていたんです。でも、まさか対談でご一緒できるなんて、私でいいのかしら(笑)。

村木 いえいえ、それはこちらのほう(笑)。『カゼヲキル』という増田さんの小説には、逆境の時に随分励まされましたし、夫も私も増田さんの解説の大ファンで、いつもテレビでマラソンや駅伝を見るのを楽しみにしているんですよ。増田さんは取材をしっかりなさっているし、とにかく選手のいいところを見つけるのが本当にお上手ですよねぇ。

増田 ありがとうございます。
村木さんは先頃、厚生労働省を退官なさったそうですけれども、最近はどんなことをなさっているのですか。

村木 37年勤めてようやく役所を卒業できたので、違うことをやってみたいと思いましてね。去年(2016年)、伊藤忠商事さんからお声掛けをいただいて社外取締役を務めているんですけど、この4月からはさらに津田塾大学で教えることになりました。

増田 そうでしたか。大学では何をお教えになるんですか。

村木 これまで労働とか社会保障に関する仕事をしてきたので、女性のキャリア開発をテーマにと依頼されました。総合政策学部という新しい学部で、社会課題にチャレンジする女性を育てることが目的なので、社会でいろんな課題にチャレンジしている方を学生たちに紹介したいとも思っています。

増田 でしたら、村木さんご自身の人生を語るだけで、そのまま素晴らしい授業になりますね。

村木 以前から学生さんたちを教えてみたいという思いはあったんですけど、自分の娘よりも若い人たちが相手なので、ドキドキが半分、ワクワクも半分です(笑)。

増田 実は私も、平成13年から大阪芸術大学でスポーツ文化論を教えているんです。私は晩婚で子供に恵まれなかったものですから、10代の学生に会うと可愛くって。最初の頃はお姉ちゃんみたいだったのが、だんだんお母さんの年齢に近づいてきて、この間も学生から「先生、おかんにそっくりなんや」って(笑)。学生に会いに行くのがいつも楽しみなんです。

村木 解説以外にも、いろんなことに取り組んでいらっしゃるのですね。

増田 この四月からは、NHKで朝ドラの『ひよっこ』が始まるんですけど、なんとこの私が語りをさせていただくことになったんです。
私で務まるかしらと思いましたが、ドラマの担当の方から「語りというよりはマラソン解説の小ネタ風に昭和の文化を伝えてほしい」と言われ、それなら大丈夫かなと気が楽になりました。

村木 なんだかすごく面白そう。新しいことにチャレジするのっていいですよね。

増田 最初は、失敗したらどうしよう、なんて不安もあったんですけど、村木さんのご本を読んでいると、好奇心が旺盛で、どんなことにも挑戦していかれていて、私もすごく影響を受けたんですよ。やっぱりチャレンジすることって大事ですよね。

村木 私は60代になりましたけど、増田さんはお若いからまだまだいろんなことができますよ。

増田 私だって、あっという間に53歳です。でもご本には、「50代が楽しい」ってお書きになっていますね。

村木 そうですね。それまでの経験が積み重なって、ちょっとゆとりも出てくるから、仕事がそれまで以上に面白くなってくるんです。特に私の職場は60歳定年で、一番責任の大きな仕事に取り組めるのが50代ですからね。そういう面でも女性は、年を取るというのが悪くない部分もあるんです。

増田 村木さんがそうおっしゃると、元気をもらえますね。私もバリバリやろうと思います(笑)。

元厚生労働事務次官

村木厚子

むらき・あつこ

昭和30年高知県生まれ。高知大学卒業後、53年労働省(現・厚生労働省)入省。障害者支援、女性政策などに携わる。平成21年郵便不正事件では偽装公文書作成容疑等で逮捕・起訴されるも、22年の裁判で無罪が確定し職場に復帰。25年厚生労働事務次官。27年退官。現在は伊藤忠商事社外取締役や、津田塾大学客員教授などを務める。著書に『あきらめない』(日経BP社)『私は負けない』(中央公論新社)。

自分にできることを一所懸命に

増田 ご本を読んで意外だったのですが、村木さんは以前、引っ込み思案だったそうですね。

村木 とにかく泣き虫でした。でもそんな私が、学校へ上がる直前に人生初のチャレンジをしたんです。保育所に大ボスが2人いて、毎日誰か1人をのけ者にしていましてね。きっとのけ者の辛さが分からないんだろうと思って、2人だけを外して弱い者だけの弱っちい連合をつくったんです。それからボスとも仲よくなったんですけど、すごく自信がついて、それからあまり泣かなくなりました。
ただ、人とのコミュニケーションはずっと苦手で、1人でいることの多い子供だったんですけど、当時は地元の高知に女の子を雇うところが全くなくて、1人で東京へ出てきて労働省(現・厚生労働省)に入省しました。仕事を通じて人と口がきけるようになりましたから、仕事って自分にとっていいものという印象を強く抱くようになったんです。

増田 労働省を選ばれたのはなぜですか。

村木 公務員は男女差別をしてはいけないという法律が当時からあったんですけど、実際はほとんどの役所が女性を採っていなくて、確実に採っていたのは労働省だけだったんです。父親が40歳で社会保険労務士の国家資格に挑戦して、第一回の合格者になっていたこともあって、労働の分野にはすごく親しみもありました。

増田 お父様は40歳で国家資格に挑戦なさったのですか。

村木 ええ。失業して、資格を取って自営を始めたんです。父があの年で一所懸命努力する姿を見られたのは、すごくよかったですね。
私は中学、高校とお金のかかる私立の学校に行かせてもらっていたので、やめる覚悟をしていました。それでも父は「頑張って行かせてやるから、やめなくていい」と言ってくれた上に、地元の大学まで行かせてくれたんです。
ですから恩返しの第一歩として、まず自分で食べていくことにはすごくこだわりがあって、公務員だったら辞めさせられずに長く仕事ができると思ったんです。国のために働こうとか、出世して偉くなろうとかいう人とは全然次元が違っていて、とにかく自分にできることを一所懸命頑張ろうというのが、入省した頃の思いでしたね。

スポーツジャーナリスト

増田明美

ますだ・あけみ

昭和39年千葉県生まれ。成田高校在学中、長距離種目で次々に日本記録を樹立。59年のロス五輪に出場。平成4年に引退するまでの13年間に日本最高記録12回、世界最高記録2回更新という記録を残す。現在はスポーツジャーナリストとして執筆活動、マラソン中継の解説に携わるほか、ナレーションなどでも活躍中。著書に『カゼヲキル』(講談社)『認めて励ます人生案内』(日本評論社)など。