2017年6月号
特集
寧静致知
対談
  • 日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社連盟会長近衞忠煇
  • 五井平和財団会長西園寺昌美

昭憲皇太后の
目指されたもの

明治という激動期に明治天皇を陰で支え続けられた明治天皇の后・昭憲皇太后。赤十字など数々の福祉事業をとおして苦しむ国民に救援の手を差し伸べられる一方、学問、修養によってご自身の徳を磨こうと努められる一面もお持ちだった。日本赤十字社社長の近衞忠煇氏と、昭憲皇太后の偉業を讃仰顕彰する「継聖会」を起ち上げた西園寺昌美氏に、世界の平和や人々の幸福を希求された昭憲皇太后の寧静致遠の歩みについて語り合っていただいた。

この記事は約20分でお読みいただけます

赤十字活動はこうして始まった

西園寺 近衞社長とこのように対談できますことを心待ちにいたしておりました。
昭憲皇太后のお名前は私が学習院女子部に通っていた頃から存じ上げておりましたが、そのご遺徳について知ったのは一昨年(2015年)でした。一人の女性として、その生きるお姿があまりに輝かで尊く、心よりの感銘を受けました。昭憲さまの御心や足跡をぜひ日本の歴史に残しておきたい、世界にも伝えていきたいという一心で「継聖会」を設立いたしました。
知らないこともたくさんございますので、昭憲さまとご縁の深い日本赤十字社の近衞社長から、きょうは詳しいお話をいろいろお伺いできると、楽しみにいたしてまいりました。

近衞 いや、恐れ入ります。国際赤十字社の歴史から少しお話をしておきますと、創設は1863年、明治維新の少し前です。スイスのビジネスマンであるアンリ・デュナンによって創設されました。デュナンは北イタリア滞在中にソルフェリーノの戦い(1859年)に遭遇します。この戦いではフランス軍とオーストリア軍が激しく衝突し、4万人近くの死傷者を出しました。デュナンは戦場に放置されたままの死傷者を見て心を痛め、医療の心得がないにもかかわらず地元民に交じって敵味方の区別なく救援活動を続けるんですね。このような悲惨な現実を何とかしたいという思いが、赤十字を立ち上げようという発想へと繋がるわけです。
組織をつくるに当たって、デュナンはクリミア戦争で看護師として活躍したナイチンゲールに相談をしています。ナイチンゲールは「負傷者の救援は国の責任で行うべき問題で、ボランティア団体が引き受けることになれば国の責任逃れの口実になってしまう」と言って反対するのですが、赤十字の活動が広まるにつれて次第に理解を示すようになります。
赤十字のほうでもナイチンゲールの医療者としての功績を顕彰するようになったために、ナイチンゲールが創設に関わったという話が広がったわけですが、「敵味方の区別なく救援する」という赤十字の大本をなす発想はデュナンによるものなんですね。

西園寺 そうでしたか。近衞社長のお話を伺い、赤十字の歴史が私の中ですっきりと整理されました。

近衞 デュナンは『ソルフェリーノの思い出』という著書の中で戦場における中立的救護機関の設置を呼び掛け、彼の提案に基づいてヨーロッパの12か国が赤十字規約を結びました。
このようにデュナンの思いを国際的、人道的なルールにしたところが赤十字の特徴で、その活動が戦時、災害時の救援だけでなく、難民の救済、捕虜や政治犯の基本的人権の確保というところまで広がっているのはご承知のとおりです。

西園寺 日本赤十字社の活動に昭憲さまが深く関わるようになられたのは、いつ頃からでございますか。

近衞 日本赤十字社の前身である博愛社は、明治10(1877)年の西南戦争の時、敵味方の区別なく兵士を救護するために佐野常民、大給恒が中心となって創始しました。明治21年の磐梯山噴火災害では昭憲さまのご下命によって博愛社が救護班を派遣するのですが、災害時の救援を行ったのは、国際赤十字の歴史を紐解いてみてもこれが最初だと言われます。明治天皇皇后両陛下には、それ以前より活動にご支援いただいていました。
明治45年、第9回万国赤十字社総会がアメリカで開かれた時、昭憲さまは10万円、現在の貨幣価値で3億5,000万円に相当する額を寄付されました。これは「昭憲皇太后基金」として、100年以上にわたり現在もなお世界各国の弱者救済のために活用されています。このような救援活動をはじめとして、昭憲さまは様々な機会をとおして一生涯、苦しむ人たちのために救いの手を差し伸べられたのです。

日本赤十字社社長、国際赤十字・赤新月社連盟会長

近衞忠煇

このえ・ただてる

昭和14年東京生まれ。学習院大学政治経済学部卒業後、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスに留学。39年日本赤十字社入社。平成3年同社副社長、日本赤十字学園理事長。17年社長。21年アジア人発の国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長に就任。実兄の細川護熙氏は第79代内閣総理大臣。

昭憲皇太后の活動の原点

西園寺 女性が学びたくとも学べなかった時代、自由に社会に出ることも許されなかった時代に、昭憲さまが歴史に残る活動をなされたことは大きな驚きです。これらはすべてご自身のご意思によるものであったのでしょうか。

近衞 そう思います。昭憲さまの人生を見ますと、嘉永2(1849)年、五摂家(近衛家、九條家、二條家、一條家、鷹司家)の一つ、一條家の三女として京都でお生まれになりました。父親の忠香は教育熱心な方でしたが、寿栄君(昭憲皇太后の幼名)が13歳の時に亡くなります。母親はもっと早くに亡くなっていましたので、幼くしてご両親を失われたのです。
その頃、京都では禁門の変など血生臭い事件が相次ぎました。寿栄君も戦火を逃れた経験をお持ちです。戦争の悲惨さを身近に感じ、心を痛めていらっしゃったことがその後のご活動に繋がっていったのではないかと私は思います。

西園寺 昭憲さまが発想なさることは、私たちには到底想い浮かばないことばかりですが、そのルーツはご自身の幼い頃からのご体験にあったということですね。

近衞 一條家もそうですが、江戸時代の公家は決して生活が豊かではなかったんですね。ですから、庶民感覚とも乖離することなく、昭憲さまご自身が深窓の令嬢というイメージとは少し違っていらっしゃったのではないでしょうか。
明治元(1868)年、18歳で明治天皇にお輿入れされ、翌年に東京に出ていらっしゃるわけですが、京都では大変な反対運動が起きました。この時の昭憲さまのご心労は想像に難くありませんし、一方で汽車も車もない時代に19日間もかけて東京に向かわれる時は、各地で民情に触れる機会もおありになったようです。東京に住まわれた後も昭憲さまはいろいろな場所にご自分の足で出向かれ、明治の錚々たる人物ともお会いになっていらっしゃる。

西園寺 様々な体験をとおして、ご自身の感性が磨かれていったのだと思います。

近衞 当時、宮中には両陛下のお世話をする女官たちが大勢いました。中には権勢を誇ったり旧弊を引き摺ったままの人もいました。それをご覧になった昭憲さまはそれまでの多くの女官を辞めさせ、人柄のいい人たちを新しく採用されるんです。固定観念に縛られない昭憲さまの考え方が柔軟な発想を生み出し、改革に繋がっていったことは確かでしょう。
少し話は逸れますが、昭憲さまはご自身の生活にいち早く西洋文化を取り入れられ、洋食を最初に召し上がっているんです。明治10年代後半には衣服も寝間着を除いてすべて洋服に切り替えられ、周囲にも洋服を着用するよう勧められました。ただ、日本の生地を必ずお使いなさいと。

西園寺 日本の生地を。

近衞 昭憲さまは産業振興のために養蚕や製糸を奨励され、御自ら吹上御苑に養蚕所を設け、指導者を招いて蚕を生産なさいました。群馬県の富岡製糸場をご視察になり、そこで働く女性たちを激励することもなさっています。人々に日本の生地を使うようおっしゃったのもそういう女性たちに対する温かい慮りなのでしょう。

西園寺 本当に素晴らしい御心ですね。昭憲さまが当時としては考えられないことをご発想になり、それを実行された理由は何なのだろう? そのことがなかなか掴めませんでしたが、本日お話を伺い、「ああ、なるほど」と腑に落ちるものがございました。

五井平和財団会長

西園寺昌美

さいおんじ・まさみ

五井平和財団会長。ワールド・ピース・プレヤー・ソサエティ代表。白光真宏会会長。ユニバーサルな世界平和運動を展開。ミレニアム開発目標女性リーダーサミット「サークル・アワード」、「バーバラ・フィールズ人道平和賞」他受賞。共著の『あなたは世界を変えられる』(河出書房新社)『遺伝子と宇宙子』(致知出版社)等著書50冊以上。