2016年5月号
特集
視座を高める
対談
  • 三菱ケミカルホールディングス会長経済同友会代表幹事小林喜光
  • ウシオ電機会長牛尾治朗

絶えず視座を高めて
道を開いてきた

激動する世界、日々変化し続ける経営環境。先の見えないこの時代に、リーダーはいかに組織を導いていくべきか。世界を舞台に高い視座で活躍する牛尾治朗氏と小林喜光氏に、これからの経営のあり方、生き方を語り合っていただいた。

この記事は約24分でお読みいただけます

自分はなぜ生きているのか

牛尾 小林さんとご縁をいただいた経済同友会では、代表幹事の小林さんをはじめ、もう私と15、6歳も違う方々が中核として頑張っておられますが、皆さんこのグローバルの時代でも立派にやっていける実力者ばかりですね。
特に小林さんは三菱ケミカルホールディングスのトップとして、時代の変化を踏まえてグループ各社をこれまでとは全く異なる方向に思い切ってリードなさっている。一体どんな方なのかと思ってご経歴を拝見すると、実にユニークな人生を歩んでこられていますね。

小林 それは恐縮です(笑)。

牛尾 小林さんが東大の大学院を出て入社された頃の三菱化成工業(現・三菱化学)には、生命科学研究所というのがありましたね。そこに在籍されていた中村桂子さんは、いまも生命誌研究家として大変活躍されていますが、東南アジアの文化交流やつくばの科学技術博覧会などで、私も随分お世話になったんです。

小林 そうでしたか。実は、私が三菱化成工業を選んだ理由の一つが、ああいう方が活躍できる会社というのは素晴らしいなと考えたことでした。生命科学研究所は、三菱化成が創立20周年を記念して立ち上げられたもので、その時に東大から江上不二夫先生や中村さんを招いて、化学会社が未来の社会に貢献できることを研究していたのです。

牛尾 それから、私が小林さんのご経歴でひと際興味を覚えるのは、大学院に在学中にイスラエルへ留学されたことです。なぜイスラエルだったのですか。

小林 いきさつをお話しすると少し長くなるのですが、私は子供の頃から、そもそも自分は何で生きているんだろう、社会に出て自分は一体何をしたらいいんだろうというのが最大の関心事でしてね。
中原中也の詩に夢中になったり、太宰治や坂口安吾、原口銃三なんかを読み耽っては、あれこれと思いを巡らせていたんです。それこそ、牛尾さんが若かりし頃に傾倒された、サルトルやカミュといった実存主義の本もよく読みました。

牛尾 読んでこられたものが、よく似ていますね(笑)。

小林 実は、大学で理系に進んだのは、こんな答えの出ないことばかり考えていたら自殺してしまうかもしれない、という危惧があったからなんです。ところがその大学もちょうど学生運動の真っ最中で、そんなもので自分の存在という問題は解決するはずがないと考えていましたから、距離を置いて冷めた目で見ていました。
そんな折に、『日本人とユダヤ人』という本を読みましてね。こんなところでゲバ棒を振り回していたってしょうがない。ユダヤ人を知りたい、砂漠に行ってみたいという衝動に駆られたんです。

牛尾 あの本は随分話題になりましたね。著者の山本七平さんという方は、専門は江戸時代の経済学ですが、とにかく読書量が膨大ですから、そこで蓄積された知見を基にあの『日本人とユダヤ人』を書かれたんでしょうね。
発売されたのは1970年頃だったと思いますが、私もウシオ電機を経営する傍ら、ちょうど社会工学研究所というシンクタンクを立ち上げた時期でしてね。山本さんを講師に招いて1週間ほど勉強会を開催したら、日経新聞や中央公論の編集局長など、有力な知識人がぜひ話を聞きたいというのでこぞって参加しました。そのおかげで社会工学研究所も非常に影響力を持つようになって、大平内閣の時にブレーンを輩出したんです。
とにかくあの本は、当時の日本人がタダだと思っていた安全や水は、世界ではタダではないんだとか、非常に示唆を与えられることが多かったものですから、山本さんとはその後も交流を続けて随分勉強をさせてもらいました。

小林 私がイスラエルに行ったのも完全に『日本人とユダヤ人』の影響ですよ。あの300万人しかいないユダヤ人が、中東で3億人ものアラブ人に囲まれながら独立を保ち続けていることや、一度離散した民が再び戻ってきてヘブライ語を復活させたりしたというのは非常に衝撃でしたし、日本人との比較でも、一神教と多神教、狩猟民族と農耕民族というふうに、非常にコントラストも際立っていて、すべてを面白く感じたんです。

三菱ケミカルホールディングス会長経済同友会代表幹事

小林喜光

こばやし・よしみつ

昭和21年山梨県生まれ。46年東京大学大学院理学系研究科相関理化学修士課程修了。ヘブライ大学、ピサ大学を経て、49年三菱化成工業(現・三菱化学)入社。中央研究所研究開発室に勤務。59年半導体研究所に異動。平成6年記憶材料事業部グループマネジャーとして本社へ異動。三菱化学メディア社長などを経て、19年三菱ケミカルホールディングス社長、および三菱化学社長に就任。24年三菱化学会長(現任)。26年産業競争力会議民間議員に就任。27年三菱ケミカルホールディングス会長、経済同友会代表幹事に就任。理学博士。

砂漠での覚醒体験

牛尾 それで、イスラエルの大学には何年いらっしゃったのですか。

小林 ちょうど1年です。駒場のキャンパスを歩いていたら、イスラエル国費留学生募集というのが掲示板に貼ってあったのが目に留まりまして、これはいいっていうので、すぐに大使館に試験を受けに行ったんです。まぁ親には随分反対されましたけれどもね。何でそんな所へ行くんだと。

牛尾 それはそうでしょう(笑)。

小林 青い目の女性なんかを連れて帰ってきたら困るというんで、しかたなく見合いをしましてね(笑)。6月に結婚式を挙げて、7月にはもう日本を発っていたんです。

牛尾 奥様もご一緒に?

小林 ええ。彼女は大学3年生でしたから中退をして、向こうのヘブライ語の学校に入ることにしました。一緒に寝袋を担いでトレーラーバスでシナイ山を越えていったんですが、ひと月もするともう日本に帰りたいって泣かれましたよ。

牛尾 そういう辛い思いも分かち合いながら、勉強してこられたのですね。それで、向こうで何か得るものはありましたか。

小林 土日にユダヤ人に案内されて、マサダだとか、エリコ、死海、シナイ山なんかをずっと見て回ったんですが、あぁここでモーゼが十戒を受けたのかと、あれはやっぱり感激しますね。

牛尾 非常に貴重な体験をなさいましたね。いまの若い人には、山本七平さんの本に打たれて自分でイスラエルまで足を運んでみるというようなきっかけがないんですよ。

小林 そうですね。私の場合は、あの頃日本を覆っていたデカダンというか、センチメンタルなムードに強い違和感がありましたからね。満員電車に揺られる大勢の中のワン・オブ・ゼムのような自分が無性に疎ましかったんです。
それが、あの何もない砂漠に一人ポツンと立っていると、心臓が鼓動を打つのが聞こえてきましてね。自分という存在の重みというか、生きていることのすごさというものをひしひしと実感することができたんです。
いまでも鮮明に脳裏に焼きついているんですが、蜃気楼の中を一人のアラブの女性が黒いショールを纏って歩いてくるんですよ。何もない死の世界にたった一つだけ動くものがある。それを見た瞬間に、存在の重みというのを実感しましてね。あぁ生きるとはこういうことなんだ。やっぱり俺も生きなきゃダメだと思いましたね。

牛尾 鮮烈な体験ですね。

小林 それまで自分の存在を疑って、あまりにも虚無感に取り憑かれていたけれども、何で俺が生きなければいけないんだとか、何のために生きているんだなんてことは、問う必要もない。とにかくこの何もない所で心臓が鼓動を打っていること。そのこと自体が美しく、尊いことなんだと実感できて、吹っ切れたんです。よし、頑張って生きてみようと。ムハンマドが啓示を受けたというのは、ああいう心的状況に通ずるものがあったのかとも思いますね。

牛尾 そういう体験をなさった方が、経営者になって活躍していらっしゃるというのは非常に面白いですね。

ウシオ電機会長

牛尾治朗

うしお・じろう

昭和6年兵庫県生まれ。28年東京大学法学部卒業、東京銀行入行。31年カリフォルニア大学政治学大学院留学。39年ウシオ電機設立、社長に就任。54年会長。平成7年経済同友会代表幹事。12年DDI(現・KDDI)会長。13年内閣府経済財政諮問会議議員。著書に『わが人生に刻む30の言葉』『わが経営に刻む言葉』(ともに致知出版社)がある。