2024年4月号
特集
運命をひらくもの
一人称
  • 佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命研究員伊香賀 隆
修己治人の人

古賀穀堂の
生き方に学ぶ

人は何のために学ぶのか――。その問いを生涯考え続けた人物がいる。古賀穀堂、佐賀藩主・鍋島直正の側近として幕末の佐賀藩の近代化に大きく貢献した人物だ。穀堂はなぜ広い見識を持ち幾多の功績を残せたのか。穀堂の艱難辛苦の人生から見えてきた運命を切りひらく秘訣を、佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命研究員の伊香賀 隆氏に紐解いていただいた。

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学問は己を修め人を治めるもの

「学なる者は、まさに己を修め人を治めんとするなり。何ぞ身を終うるまで矻矻こつこつとして文字をおさむるにいとまあらんや」(学問というものは自分を修め、人を治めるものである。どうして生涯、文字の世界に止まって、字句の解釈ばかりに時間を費やす暇があろうか)
佐賀藩校・こうどうかんの初代教授(学長)を務めた儒学者・古賀せいの言葉です。開幕から約200年、太平の世が続く中で頭だけの勉強に終始している世相を厳しく批判しています。

本来の学問(儒学)とは天下国家を治めるためのものであり、そのために自己修養に努める、つまりしゅうじんの生き方が大事であると説いているのです。「文人儒生ぶんじんじゅせい」と称せられることを嫌い、修己治人の生き方を貫いた精里の精神をそのまま受け継いだのが、長子であるこくどうでした。

古賀穀堂は父にならって儒学者になり、佐賀藩主・鍋島なべしま直正なおまさの側近として教育や藩政改革の基盤を築き、佐賀藩の近代化のいしずえをつくった人物です。その生涯についてはよく分からないことが多くありましたが、かつて帝室博物館(現・東京国立博物館)総長だった森鷗外おうがいが「古賀穀堂遺稿」を92点も古書店で買い求め、丹念に読み込んでいたことが2012年になって分かりました。この発見により穀堂のぜんぼうがより明らかになりつつあります。

大学院で儒学思想を学んだ私は穀堂の名前こそ知っていたものの、深く研究するに至ったのは佐賀大学教授の故・生馬いくま寛信先生が2015年に出版された佐賀偉人伝シリーズ『古賀穀堂』の執筆をお手伝いしたことがきっかけでした。その後、森鷗外が収蔵した「古賀穀堂遺稿」の解読にも従事し、それを読み込む過程で穀堂の功績の裏にあった若き日の立志、長年の苦悩などを知り、その生き方に深い感銘を受けるようになりました。

穀堂が生きた18世紀末から19世紀初めにかけての佐賀藩は、他藩との往来も少なく、学問を軽視し毛嫌いする怠惰な風潮が蔓延まんえんしており、穀堂はその悪しき流れを「ゆうふう」と表現しました。折からイギリスの軍艦フェートン号が長崎に入港し、乱暴を働いて去っていくという「フェートン号事件」が発生。国防の重要性を痛感した穀堂は、人一倍危機感を持って勉学に励んだのでした。

なぜ穀堂は藩の風潮に流されずに危機感を持ち得たのか。そして、佐賀藩の近代化の基礎を築けたのか。穀堂の生涯を辿たどる中でその運命を切りひらいたかなめを探りたいと思います。

佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命研究員

伊香賀 隆

いこうが・たかし

昭和47年佐賀県生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。東洋大学大学院文学研究科中国哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は朱子学・陽明学を中心とした中国宋明代の儒学思想、及び佐賀儒学。佐賀大学地域学歴史文化研究センター特命研究員。佐賀県立図書館郷土資料課非常勤職員。著書に『聶双江』(シリーズ陽明学、明徳出版社)、共著に『佐賀学Ⅲ』(海鳥社)『語り合う良知たち』(研文出版)など。