2024年4月号
特集
運命をひらくもの
鼎談
  • 棟方志功研究家石井頼子
  • 河井寬次郎記念館学芸員鷺 珠江
  • 関西学院大学大学博物館館長濱田琢司

運命は
出逢いでひらかれる

陶芸家の河井寛次郎と濱田庄司、そして木版画家の棟方志功。いずれも我が国の芸術史に偉大な足跡を残したその道の達人である。3人はいかにして卓越した業績を残したのか。令孫である石井頼子氏、鷺珠江氏、濱田琢司氏を通じ、三人三様の人生を辿りつつ探る、運命をひらく心得。

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20年にわたり交流を重ねて

 きょうは雨の中、お二人とも京都までお越しくださりありがとうございます。

石井 とんでもありません。珠江たまえさんが運営に尽力なさっている河井寬次郎かわいかんじろう記念館にまた伺うことができて、とても嬉しく思います。

濱田 3人の交流は20年くらい続いていますが、河井さんゆかりの記念館で改めて各々の祖父のことを語り合うのは大変有意義なことで、私も楽しみにしていました。

石井 琢司さんとは、私の祖父・棟方志功むなかたしこうの長男のところへ、濱田庄司先生のお嬢様が嫁いでこられたことから親戚の間柄で、小さい頃から知っていますけど、こうして一緒に鼎談ていだんに参加できるようになるとは思ってもみませんでした。

濱田 本当にそうですね(笑)。
そして鷺さんとは、私の祖父の濱田庄司はまだしょうじが河井さんと懇意こんいにしていたおかげでご縁を結ぶことができました。庄司がイギリスから帰国して栃木県の益子ましこを拠点に作陶を始めた当時は、河井さんのご家庭もまだそんなに余裕があったわけではないのに、ご夫婦で庄司の生活を心配して随分支援してくださったと聞いています。

石井 私は最初、こちらの記念館の敷居が高く感じられてなかなかお声を掛けられなかったんですよ。珠江さんは早くから立派な研究者になっていらっしゃったし。

 いえ、決してそんなことはありませんから(笑)。

石井 でも2004、5年頃、棟方の書簡をまとめる時に、お母様の須也子すやこ様にご協力をお願いしたのを機に、珠江さんとも親しくお付き合いできるようになりました。本当にありがたいことです。

濱田 石井さんも鷺さんも他家へ嫁がれていますし、うちは兄が焼き物の仕事を継いでいます。3人とも家を継ぐ立場ではなく好きなことを言い合えるおかげで、こうして楽しく交流を続けることができているのかもしれません(笑)。

棟方志功研究家

石井頼子

いしい・よりこ

昭和31年東京都生まれ。母は棟方志功の長女けよう。54年慶應義塾大学文学部卒業。平成23年の閉館まで学芸員として棟方版画美術館に勤務。棟方研究を専門に、講演会、執筆活動、展覧会監修、書簡整理などに携わる。令和5年「生誕120年棟方志功展」に学術協力。最近著『てのひらのなかの神羅万象 棟方志功作品集』(東京美術)。

巨匠という言葉はそぐわない

石井 ところで、こういう鼎談では主催者の方が祖父たちのことを「巨匠」と呼んでくださることがよくありますよね。私はこの言葉があまりピンとこないんです。祖父自身もそう呼ばれると違和感を抱いたんじゃないでしょうか。河井先生、濱田先生と一緒に民藝運動にも関わっていたので、余計にその言葉はそぐわない気がします。

濱田 ご存じない読者もいらっしゃると思いますので、民藝運動のことを簡単に説明しておきますと、大正15(1926)年に思想家で美術評論家の柳宗悦やなぎむねよしさんと共に河井さんと庄司が中心になって提唱した生活文化運動です。名もない職人が生み出す日常の生活道具に価値を見出していこうという運動の趣旨に、世間から大きな共感が集まりました。

 巨匠の話に戻りますと、寬次郎もそう呼ばれるのは本意ではなかったようです。「陶芸家」という言葉も嫌で、自分では「陶工」という言葉を使っていました。

濱田 庄司もまた自分のことを「陶工」と名乗っていました。ただ、庄司の場合は「作家としての陶工」みたいな言い方をしていて、職人とも違う立場で活動していたようですけれども。

石井 棟方が巨匠と呼ばれることには違和感がありますけど、私の幼い頃、棟方が時の人であったという実感はあります。
私が生まれたのは昭和31年で、ちょうど棟方が30年、31年にサンパウロとベニスのビエンナーレ(2年に一度開かれる美術展)で連続してグランプリを取った頃でした。ちょうど民藝運動がブームになっていたことも相俟あいまって、棟方がものすごく注目されていて、自宅には取材の人がしょっちゅう来ていましたから。
子供の頃、デパートで開かれる棟方の展覧会場は遊び場のように感じていました。作品に注文の赤い札が滝のようにたくさんついていて、とても華やかだったのが印象に残っています。裸の絵が多かったのは嫌でしたけどね(笑)。

濱田 私の場合、物心ついた時に庄司はもう最晩年でしたから、直接触れ合った思い出はあまりないんです。小学校の教科書で地元の偉人として紹介されているのを見て、「あぁ、こんなところに出てくる人なんだ」と思ったのが最初に祖父の偉大さを実感した時だったかもしれません。あとは亡くなった時に地元で立派な町内葬が催されたこととか、子供の頃の記憶としてインパクトがあるのはそういうところでしょうか。

 私も祖父の葬儀ではすごいと思ったことがありました。河井邸で密葬をした時にはいろんな宗教の違う方々が枕経まくらぎょうを上げに来てくださいましたし、密葬の後で民藝運動の母体である日本民藝協会の皆さんに、大徳寺真珠庵で協会葬を催していただいた時には、参列してくださった方の靴の数に驚きました。まるで黒い靴の海でした。

河井寬次郎記念館学芸員

鷺 珠江

さぎ・たまえ

昭和32年京都府生まれ。河井寬次郎の一人娘・須也子の三女として生まれる。同志社大学文学部卒業後、河井寬次郎記念館学芸員として勤務。祖父・寬次郎にまつわる展覧会の企画、監修や出版、講演会、資料保存などにも携わる。