2024年4月号
特集
運命をひらくもの
一人称
  • 東京大学大学院総合文化研究科教授中澤公孝

あなたの中には
未知の能力
が眠っている

人体の神秘が教えてくれること

事故や病気によって、呆気なく体の自由が奪われる可能性は誰しもある。消沈し、希望を見失っても不思議はない。しかし、東京大学大学院教授・中澤公孝氏は、ある条件を満たすと脳は驚異的な変化を見せ、却って健常時を超える能力が引き出されるとの仮説を構築している。世界に先駆ける研究の現場からの証言に耳を傾けたい。

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脳性麻痺の水泳世界王者との出逢い

何だこれは! こんなことが起こるのか……。その時の衝撃は、いまも忘れることができません。

あれは東京2020オリンピック・パラリンピック開催に向け、気運が高まってきた2015年のことでした。テレビ局から私の研究室に番組の協力依頼があり、パラリンピアン(パラリンピック出場選手)の身体能力の秘密を探ることになりました。

前の職場である国立障害者リハビリテーションセンター(以下:国リハ)研究所に勤め始めた20代半ばから約30年、私は健常者からしょうがい者まで、アスリートを含めて様々な人の運動機能の測定にたずさわってきました。それで白羽の矢が立ったのでしょう、依頼の一つ目は、ある水泳選手の筋活動を測ってほしいというものでした。

その選手とは、アメリカのパラ水泳女子のコートニー・ジョーダン選手でした。2008年の北京五輪に始まり、ロンドン、そして当時翌年に控えていたリオデジャネイロ五輪にも連続で出場し、金を含む総計12個ものメダルを獲得した世界チャンピオンです。

彼女の障碍は、出生の前後で脳が大きな損傷を負ったことによる、左半身の重いでした。生まれつき脳卒中の患者さんに近い障碍を抱えていたのです。

渡米した私たちは、彼女の体に防水センサーをつけて筋活動を記録。次いでプールサイドを歩いてもらいました。初めて生で見る彼女の泳ぎは事前に動画を観た印象、想像をはるかに上回るダイナミックさで、両腕を大きく動かしての見事なクロール、バタフライに圧倒されっ放しでした。水から上がり、麻痺のある手足で歩く姿にギャップを感じたほどです。

これだけでも驚きでしたが、彼女の脳をMRI撮影し、画像を目にした瞬間、息をみました。本人に見せるのも躊躇ためらわれるほど大きな、黒い〝穴〟のような損傷が見えたからです。左半身に関わる右脳の、運動や感覚をつかさどる領域、特に手指など上肢じょうしの支配領域はほぼ喪失していました。こんな状態であの泳ぎをしていたのか! 冒頭の「衝撃」という表現は、研究者としての私の率直な思いです。

測定を通して様々な事実が明らかになりましたが、中でも驚異的だったのは彼女の脳の働きです。調べてみると、右脳の運動野の細胞が損傷したため、頭頂寄りの細胞が活発になり、失われた機能を〝代行〟していたことが分かりました。さらに、運動野から出る電気信号の通り道であるせきずいの機能を左右で比べると、右手側よりむしろ麻痺した左手側のほうが高まっていました。

などで体の機能が欠損すると、脳は機能や構造を変化させる、つまり「再編」が起きることは、論文で知っていました。彼女の脳を通じて、その劇的な事例を世界的にも初めて目撃できたのです。

私はそれまで、パラリンピアンは障碍があっても高い運動能力を示し、同じく障碍のある人々に勇気を与える存在と考えていました。しかしこれを境に、それだけでなく脳には私たちが勝手に決めている限界以上の、いま実現不可能と思われることを可能にする力がある。それを実証してくれているのがパラリンピアンなのだと、人間観がガラッと変わったのです。

東京大学大学院総合文化研究科教授

中澤公孝

なかざわ・きみたか

昭和37年長野県生まれ。60年金沢大学教育学部卒業、平成3年東京大学大学院教育学研究科博士課程修了、国立障害者リハビリテーションセンターに勤務。同研究所運動機能系障害研究部長を経て21年より現職。近著に『パラリンピックブレイン』(東京大学出版会)。