2016年6月号
特集
関を越える
対談
  • 熊谷電気社長、宮城県倫理法人会副会長熊谷光良
  • 男山本店社長、気仙沼商工会議所会頭菅原昭彦
復興にかける思い

かくて大震災という
関を越えてきた

東日本大震災から丸5年の歳月が経過した。いまだ復興は道半ばである。とりわけ宮城県気仙沼市は大地震、大津波に加え、湾一帯が火の海と化し、甚大な被害を受けた地域の一つだ。その地で長年、事業を営み、大津波で社屋が流失した中、ゼロから再起を図るとともに、地域のために尽力してきたのが熊谷電気社長・熊谷光良氏と男山本店社長・菅原昭彦氏である。この5年間、いかにして大震災という関に向き合ってきたのか。リーダーとしての実践と心掛け、そして復興に懸ける思いについて語り合っていただいた。

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この対談は2016年4月11日、宮城県気仙沼市にある気仙沼商工会議所で行われた。

仮復旧から本復旧へ

熊谷 今回、東日本大震災の発生から丸5年が経ったことを機に、これまでの歩みをぜひ語っていただきたいと、致知出版社さんからお声掛けをいただきまして、最初は私なんか出るような器じゃないと思ったんです。ただ、菅原会頭との対談ということでしたので、それならお受けしようと。
何しろ菅原会頭は、創業100年を超える気仙沼の老舗酒造メーカー男山本店の四代目として、震災後すぐに酒造りを再開し、打ちひしがれていた気仙沼の人々に勇気を与えましたよね。さらには気仙沼商工会議所の会頭として、地域の復興に向けて奔走されている。

菅原 いやいや、恐れ入ります。熊谷社長こそ、震災後停電が続いていた時期に町の電気工事に尽力され、実に多くの病院や避難所に明かりを灯されました。それがどれだけ気仙沼の人たちの生きる希望になったことか。
私は現場のことは話せますけど、熊谷社長のように人としての生き方について語れるようなものは何もありません。ですから、きょうは大先輩にいろいろと学ばせていただこうと考えています。

熊谷 菅原会頭とはもう長い付き合いですし、普段から商工会議所をはじめ様々な組織でご一緒していますけど、こういう形で語り合うのは初めてですね。

菅原 そうですね。最初の出逢いは熊谷社長が気仙沼JC(青年会議所)の理事長をされていた時だったと思いますので、もう30年以上前になります。私は当時まだ学生でした。
ところで、きょうも午前中に、ある有名私立大学の方がお見えになったんです。「この5年間はインフラ復旧が急務だったので、何もできなかったけれども、これからの5年間は我われの出番だと思います。ぜひ協力します」と。

熊谷 ああ、そうでしたか。

菅原 読者の方のために気仙沼の現状を申し上げますと、まだまだ仮設住宅や仮設商店が随分残っていますから、仮復旧を終えてようやく本復旧に差し掛かったという状態です。

熊谷 復興という段階には至っていませんね。

菅原 数字で見ても、水や電気の使用量は震災前の6割に止まっていますし、震災前の売り上げに達していない企業は8割以上に及びます。また、災害公営住宅は戸数を計算して建てたものの、いざ蓋を開けたら、その間に亡くなった方もいるし、地元に戻るのを断念して別の地域に行ってしまった方もいる。ですから、被害が大きくて時間が掛かったことによって、問題がより複雑で多様になっている感じがしますね。
ただ一方で、この5年間、少しずつでもチャレンジをし、震災前から生まれ変わってきた人たちがいるんですよね。例えば、製造業だと震災前から「販路がない」と言っていましたけど、これを機に従来の販路をすべて変えて、大手スーパーに卸していたのを消費者と直接繋がるネット販売にしようとか。そのように、これからの時代に即した新しいやり方が構築されてきているのも事実です。

熊谷電気社長、宮城県倫理法人会副会長

熊谷光良

くまがい・みつよし

昭和22年宮城県生まれ。45年東北学院大学工学部卒業後、東光電気工事入社。50年熊谷電気商会(現・熊谷電気)入社。平成13年同社代表取締役就任。26年宮城県倫理法人会副会長就任。その他、気仙沼電気工事組合理事長、気仙沼商工会議所常議員などの要職も務める。

地域を復興させることが何よりものご恩返し

熊谷 この5年間、夢中で走ってきたわけですけど、やっぱり一番力を注いできたのは自分の会社を再建すること。まずそれをしなければ社員を幸せにすることはできませんし、気仙沼の地域に対して社会貢献もできません。

菅原 おっしゃるとおりですね。我われには3月11日をともに乗り越えてきた社員がいるわけですから、社員をまずベースにしないと罰が当たると思います。

熊谷 と同時に、私は気仙沼電気工事組合の理事長や宮城県倫理法人会の副会長などもさせていただいていますので、関連諸団体の組合員とともに、気仙沼、そして宮城を復興させていく。
あともう一つは、震災直後からたくさんの応援や励ましをいただいてきましたので、その方々に対するお礼をきちんとしていかなければならない。端的な例を挙げれば、震災後、一番最初に気仙沼に現金を届けてくださったのは台湾の団体だったんですよね。

菅原 そうでしたね。

熊谷 あの時は銀行のATMも全く稼働していませんから、菅原会頭のようなお金持ちでも、預金を下ろせないわけですよ(笑)。

菅原 何をおっしゃいますか(笑)。

熊谷 とにかく手元に現金がないと買い物すらできない状況の中で、台湾の方々の支援は実にありがたかったですよね。それだけに止まらず、日本国内のいろんな団体からも応援をいただきました。
そのお礼として、気仙沼の名産であるサンマを贈ったりしてね。すると、皆さん涙ながらに電話をくださった。「嬉しかった」って。震災そのものを我が事のように受け止め、気仙沼を第二の故郷のように思ってくれている。そういう方々の真心の支援というか、真心の絆が気仙沼全体の大きな財産になっていくと思います。それに対して、我われはたとえ牛の歩みであっても、感謝の気持ちで応えることが大事ですよ。
私、いつも思うんですけどね、もし逆の立場だったら、果たしてこれだけのことができるのかって。だって、いまだに「これ、うちの畑で作った野菜なので食べてね」って送ってくださる方もいるんですから。日本人って素晴らしいなと思います。

菅原 先ほどお話しした大学の方もそうですが、いまでも気仙沼に手を差し伸べてくれる方がいらっしゃる。もう本当に感謝ですよね。
よく「皆さんを勇気づけようと思って来たら、逆に勇気をもらって帰りました」と言う方がいらっしゃるんですけど、それは逆ですよね。皆さんが来てくださったり、応援してくださることで、我われは元気でいられるわけです。
それをどうやって返すか。とにかく一所懸命やって、復旧ではなく、元の状態より上へと復興させていく。時代はどんどん進んでいますから、あの日に戻ったのではダメで、先んじていかなければならないと思っています。

熊谷 やっぱり気仙沼の町を復興させることが、何よりものご恩返しになるんです。

男山本店社長、気仙沼商工会議所会頭

菅原昭彦

すがわら・あきひこ

昭和37年宮城県生まれ。60年成蹊大学法学部卒業後、61年男山本店入社。平成14年同社代表取締役就任。25年気仙沼商工会議所会頭就任。その他、震災復興会議委員、内湾地区復興まちづくり協議会会長として、地域の復旧・復興、産業再生にも取り組んでいる。