2022年3月号
特集
渋沢栄一に学ぶ人間学
我が心の渋沢栄一②
  • NPO法人共存の森ネットワーク理事長渋沢寿一

渋沢栄一の
求めたものを求めて

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渋沢栄一から農業の血を継いだ

私が生まれた1952年は渋沢栄一が亡くなって既に20年以上が経っており、私にとっての栄一は曽祖父というよりも歴史上の人物という認識でした。それでも父・正一まさかずや叔母から断片的に話を聞いたり、神棚の横に飾られている栄一夫婦の写真を見たりする中で、いつしか渋沢家の一人であるという自覚が芽生えていったように思います。父の正一は、栄一の三男・正雄の長男に当たります。

いまでもよく覚えているのが、本家を継いだ栄一の孫・敬三の話です。敬三は日銀総裁や大蔵大臣などを務めた人で、私の子供の頃はまだ健在でした。栄一が「自分は二流の経営者だ」と語っていたこと、また「祖父じいさん(栄一)が資本主義というとんでもないものをこの国に持ち込んだおかげで、この国の伝統が失われていく」と敬三がいたく心配していたことを、父を通して聞かされていました。

日銀総裁や大蔵大臣を務めた人がなぜそこまで資本主義を批判するのか、若い頃の私はまったく理解できませんでした。しかし、私自身、様々な農業体験や国内外での地域づくり、さらにこれから紹介する高校生の「聞き書き甲子園」の活動を通して、そこに込められた意味が少しずつ理解できるようになっていきました。

私は東京・世田谷の生まれですが、その頃の世田谷は一面が畑で、地域の子供たちは家の中にイタチが出没するような自然豊かな環境で伸び伸びと育ちました。私も二十日大根を種から育てるなど小学生の頃から農業に関心を抱くようになり、折からの学園紛争で高校の授業が休みになると、栃木県の開拓地に行って農家に寝泊まりしながら農村体験をしました。家の中で牛や馬を飼い、畑では芋や稲も栽培している自給自足型の農家の生活に触れ、「こういうところで暮らしてみたいな」とあこがれを抱いたものです。

大学で農業を学んだ後は、JICAジャイカ(国際協力機構)の専門家として南米パラグアイに赴任し、1年半、技術支援に当たりました。また、私が学生時代、切り花を専門に学んでいたことがきっかけで、長崎のオランダ村(現・ハウステンボス)の事業に関わるようになり、後に役員として経営にも携わりました。

事業家だった栄一は、もともとは深谷の豪農の生まれでした。敬三も父・正一も農学部出身でしたから、私が農業に携わるようになったのも、もしかしたら、そういう血を引いているからなのかもしれません。

NPO法人共存の森ネットワーク理事長

渋沢寿一

しぶさわ・じゅいち

1952年生まれ。国際協力機構専門家としてパラグアイに赴任後、長崎オランダ村、ハウステンボスの企画、経営に携わる。NPO法人共存の森ネットワーク理事長。全国の高校生100人が「森や海・川の名人」をたずねる「聞き書き甲子園」の事業や、各地で開催する「なりわい塾」など、森林文化の教育、啓発を通して、人材の育成や地域づくりを手掛ける。