2017年11月号
特集
一剣を持して起つ
一人称
  • 神奈川大学名誉教授松岡紀雄

松下幸之助が
貫いたもの

アメリカPHP研究所初代代表などを務め、11年間にわたり松下幸之助から親しく薫陶を受けた松岡紀雄氏。いくつかの興味深いエピソードを交えつつ、松下幸之助の人生観、仕事観の本質に迫っていただいた。

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松下幸之助の人柄に魅せられて

1人の人物をどのように捉えるかは、見る人によって様々です。松下幸之助さんについても立志伝中の名経営者、あるいは社会啓蒙家として多くの方々がそれぞれの視点、立場で語ってこられました。
松下さんは激動、激変の時代を生き抜き、その94年の生涯は文字どおり波瀾万丈といえるものですが、松下さんと接した時代や年齢によって、受け取る印象も大きく異なるはずです。
縁あって私は25歳から36歳までの11年間、親しくその謦咳に接する幸運に恵まれました。松下さんは71歳から82歳までの、時折体調を崩されることはあってもまだ凜として最高の円熟期でした。
社員を熱く叱咤する激しさは影を潜め、常に沈着冷静であられたように思います。もちろん、ご自身の名前を冠した企業の創業者として、世界に広がったお客さまや社員、社会全体に対する重い責任を、一身に背負っていたことは言うまでもありません。
私が松下電器に入社した昭和39年は、既に社長の座から退いていたとはいえ、予期しない経営の危機に直面し、会社再生の転機となった熱海会談が開かれた年でした。
経理マンとして歩み始めた私でしたが、入社2年足らずして突然PHP研究所への出向を命じられました。松下さんが『PHP』の普及に本格的に取り組むことになり、その若手要員の1人に私が選ばれたのです。
当時、PHP研究所は京都南禅寺のほとりにある真々庵に置かれていました。東山を借景に日本庭園を見渡す座敷でお目に掛かった松下さんの印象は「大きな耳の間に上品なお顔がある」とでも言いましょうか。この大きな耳で人の話を真剣に受け止めておられるのだと、後になって悟った次第です。
「松岡君、修業と思ってPHPで頑張ってくれ。3年過ぎた後で、君がPHPの仕事を続けたい、僕もそうしてほしいと思った場合は引き続きやってもらおう」
これが松下さんから直に掛けられた最初の言葉でした。実に優しい口調でしたが、その中身はドキッとするほどに厳しい内容でした。
研究部からやがて普及企画を担当することになった私は、その期待に応えるべく奔走しました。月刊10万部から100万部、さらに150万部達成という大きな目標に向かって、研究所全体が燃えていたと言えるでしょう。各企業における社員への購読斡旋から、通りの一軒一軒をくまなく訪ねて購読を呼び掛ける「軒並み訪問」、書店や駅売店での普及促進など脇目も振らず取り組んだものです。
辛いとか、やらされているとか思ったことは1度もありません。これも「普及をとおして世の中をよくしたい」という松下さんの思いに心から共感していたためだと思います。また、この人に喜んでほしいと思わせるだけの魅力と迫力を松下さんはお持ちでした。

神奈川大学名誉教授

松岡紀雄

まつおか・としお

昭和15年愛媛県松山市生まれ。39年京都大学法学部卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)入社。11年間松下幸之助の薫陶を受け、アメリカPHP研究所初代代表や『英文国際版PHP』編集長などを歴任。経済広報センター主任研究員を経て、平成2年から神奈川大学経営学部、同大学院経営学研究科教授。23年退職。