2017年11月号
特集
一剣を持して起つ
対談
  • 元卓球女子日本代表監督近藤欽司
  • 古川商業高等学校女子バレーボール部元監督国分秀男

かくて日本一へと
導いてきた

元卓球女子日本代表監督として福原 愛選手を世に送り出すなど今日の卓球ブームの火付け役として、また、京浜女子高等学校(現・白鵬女子高等学校)を8度の全国優勝に導いた名将・近藤欽司氏。その近藤氏を師と仰ぎ、当時無名だった古川商業高等学校(現・古川学園)女子バレー部を全国制覇12回へと導いた智将・国分秀男氏。ともに一剣を持し、選手指導に心血を注いでこられた飽くなき道のりを語り合っていただいた。

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台上の格闘技

国分 こうして近藤先生と顔を合わせるのは、随分久しぶりの感じがします。

近藤 そうですね。

国分 近藤先生は卓球一筋に歩んでこられましたが、最近は日本の卓球も随分強くなりましたよね。テレビで観ていて面白いっていうか、日本人の魂の響きを感じる。リオオリンピックに出た水谷隼選手の準決勝の試合なんか、ピンポンなんていう悠長なものじゃなくて、魂と魂のぶつかり合いですよ。

近藤 今年(2017年)4月に行われたアジア卓球選手権では、平野美宇選手が世界ランク1位の丁寧をはじめ、同じく世界ランク2位と5位の選手を立て続けにやっつけたでしょう。これなんかは100メートルの競走で言ったら、9秒台どころか8秒台で走ってしまうくらいすごい出来事なんですよ。

国分 まだ若い選手ですよね。

近藤 平野は17歳。そして6月には世界卓球の準決勝で再度丁寧と対戦しました。この試合は世界中が注目した。もし平野が2回続けて勝ったら、中国は面目丸潰れだからね。
僕はこの試合を「線上決戦」と名づけたんだけど、卓球台にはサイドライン2本、エンドラインがあって、丁寧はそのラインぎりぎりのところを狙ってきたんです。というのも、平野は卓球台の近くでプレーするから、大きく左右に振られると間に合わないし、エンドラインぎりぎりに攻められると処理が難しいんですよ。それで負けてしまった。

国分 相手もよく考えているわけだ。まさに台上の格闘技ですね。

近藤 やられたら、やり返す。その気持ちがないと勝てませんよ。

国分 しかし、これだけ日本が強くなったのは、いま話題のエリートアカデミーの存在が大きいんでしょうね。

近藤 そうだね。エリートアカデミーっていうのは、東京都北区にある味の素ナショナルトレーニングセンター内の施設を使っていて、全国から素質のある選手だけを集めて強化しているんですよ。アカデミー生たちは施設内で寮生活をしていて、そこから学校にも通う。

国分 何人くらいのアカデミー生がいるんですか。

近藤 卓球選手だけでいまは8名います。

国分 いま活躍している平野美宇、伊藤美誠、それから張本智和。どの選手もアカデミー出身ですね。

近藤 選手たちは最新の施設の中で練習ができる上に、メンタルコーチやフィジカルコーチ、あるいは情報分析や栄養面の専門スタッフなどがサポートしてくれるから、環境にはすごく恵まれている。
実はこうした英才教育というのは中国ではかなり前から始めていて、日本では2008年にナショナルトレーニングセンターができ、それと同時にエリートアカデミーがスタートしていて、その効果がようやく出始めてきたんですよ。

国分 近藤先生もそこで選手たちを指導されていたんですよね。

近藤 男女のヘッドコーチとして2011年から5年間携わってきました。技術的なことはもちろん、身の回りのことや挨拶がきちんとできるとか思いやりを持つだとか、これまでの指導経験を通じて、一人の人間として大切だと思われることも僕は教えてきました。

国分 とても大切なことですね。

近藤 いまは日本リーグに所属しているサンリツ卓球部の監督をしていますけど、選手たちは次の東京オリンピックに出たいという思いで頑張っていますよ。

元卓球女子日本代表監督

近藤欽司

こんどう・きんじ

昭和17年愛知県生まれ。名古屋電気工業高等学校(現・愛知工業大学名電高等学校)時代に、全国高校総体団体優勝、国体優勝を果たす。日産自動車を経て、40年京浜女子商業高等学校(現・白鵬女子高等学校)の監督に就任。全国高校総体で8度の団体優勝に導く。全日本女子チーム監督として、福原愛選手など日本トップ選手を指導し、世界選手権では3度の銅メダルを獲得。平成23年からJOCエリートアカデミーのヘッドコーチを務める。24年日本リーグ女子一部のサンリツ卓球部監督に就任。

26歳で初優勝

国分 近藤先生とは20代の頃からの付き合いですけど、初めてお会いした時のことを私は鮮明に覚えているんです。あれは4月末の日曜日で、午前中の練習が終わって体育館の階段から下りてきた時のことでした。校舎の真ん中にプールがあって、そこにぽつんぽつんと頭が2つ見えた。その一つが近藤先生だったんですよ。
まだ冷たいプールの中で何をしていたのかと後でお聞きしたら、「一緒にいた選手が次の関東大会の勝敗のカギを握っている。技術的にすごいものがあるけれど、精神的に弱い部分があるからそれを何とか直そうと、2人で冷たい水に入って精神面を鍛えるための話をしていた」とおっしゃったんです。
それが最初ですよ、近藤先生から指導者とはどうあるべきかを身を以て教えられたのは。きっと私だったら、選手だけプールに入れて、「おまえ、何しているんだ」って言っていたでしょうね。なるほど、日本一を目指す監督はここが違うんだなと思いました。

近藤 そんなことがありましたか? 僕は覚えてないけど(笑)、若い時の指導は無我夢中でしたね。「俺についてこい」というスパルタ的な要素があったと思う。自分も高校時代に寮生活をしながら、厳しい環境の中で全国優勝を目指してやってきたので、生徒たちにも自分の経験を通じた指導をするというのがベースでした。ただ、後でも触れますけど、それが大きな失敗にも繋がっていくわけですよ。

国分 それでも監督就任4年目にして京浜女子商業高等学校(現・白鵬女子高等学校)を優勝に導かれたんですから、誰にでもできることじゃありませんよ。

近藤 あれは運がよかったね。インターハイの団体、いまでいう全国高校総体の団体戦で初優勝をしたのは私が26歳の時でした。
ちなみに監督就任1年目は、1回戦負けですよ。まだ力がなかったんですけど、相手チームの監督が女性だったことに加えて、18歳の時に選手として優勝しているわけだから、プライドもあるじゃないですか。それにまだ血気盛んな頃でしょう。その日は試合が終わるとすぐ夜行列車に飛び乗って開催地の長崎から帰ってくると、翌日から猛練習ですよ。
それで2年目にベスト8、3年目には決勝で負けて、来年こそはと臨んだ翌年に初優勝できましたから、とんとん拍子に来て、ある程度指導者として自信のようなものが出てきたことは確かですが、そこからが苦難の道の始まりになりました。

古川商業高等学校女子バレーボール部元監督

国分秀男

こくぶん・ひでお

昭和19年福島県生まれ。慶應義塾大学卒業後、京浜女子商業高等学校(現・白鵬女子高等学校)を経て、48年宮城県の古川商業高等学校(現・古川学園)に奉職。商業科で教鞭を執る傍ら、女子バレーボール部を指導。全国大会出場77回、うち全国制覇12回。平成11年には史上5人目の3冠(春、夏、国体)の監督となる。8年から春夏ともに4年連続決勝進出という高校バレー史上初の快挙を成し遂げる。