2025年2月号
特集
2050年の日本を考える
鼎談
  • 東洋思想研究家田口佳史
  • 作家北 康利
  • 臨済宗円覚寺派管長横田南嶺

2050年日本を
富国有徳の国に
するために

我が国から勤勉・修養の精神をなくしてはならない

かつて地中海全域を支配し繁栄を築いた古代ローマ帝国は、ローマ人がローマたらしめているものを失ったから滅びたという。では、日本を日本たらしめているものは何だろうか。その一つは「勤勉・修養の精神」である。日本の最大の資源ともいうべき精神が失われつつあるいま、本誌連載陣の田口佳史氏、北 康利氏、横田南嶺氏のお三方に、先達の生き方を交えながら、日本を富国有徳の国にするための道筋を探っていただいた。

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枝葉末節の議論に終始しているいまの日本

田口 いつも『致知』で一緒に連載をしているお二人とは、ぜひ一度じっくり語り合いたいと思っていました。きょうは念願かなってとても嬉しく思います。
さて、鼎談ていだんに先立って致知出版社の藤尾社長から「2025年、日本は再びよみがえる兆しを見せるであろう。2050年、列強は日本の底力を認めざるを得なくなるであろう」という森信三先生の言葉をご提示いただきました。この言葉を現実のものにして、日本を世界が憧れるこくゆうとくの国にするためにどうすべきかと。残念ながら、現状は理想から大きくかいしていると言わざるを得ません。

横田 確かに、いまの政治の現状には失望することも多くございますし、経済的な問題も深刻です。一番大きいのはやはり人口の減少でございましょうか。とにかく衰退のきざしは枚挙にいとまがないというのが現状であろうとは思います。

 日本の混迷、荒廃ぶりは数字からも見て取ることができますね。

田口 日本の現状を考えるに当たって、まず陽明ようめい学の祖・王陽明の言葉をひもといてみましょうか。
陽明は、衰退への道を歩み出した国は本質を外れて枝葉末節しようまっせつ論ばかり繰り返すようになると言っています。どうでもいいまつな議論ばかり繰り返すようになると。まさしくいまの日本の姿そのものではないかと思って、私は王陽明の『抜本塞源論ばっぽんそくげんろん』を多くの議員、裏金議員と言われている人たちにも配りました。ぜひ読んでくれと。

 あぁ、王陽明の本を議員さんたちに。

田口 私は長年東洋思想の研究を通じて、根源、長期、多様なものの見方を訓練してきました。そういう私のような人間からすると、いまの日本で行われている議論というのは、ほとんど枝葉末節論に終始しているように感じられてなりません。小さなことに神経をとがらせてばかりで、根本や本質を見逃している。これでは王陽明の言うように、衰退の道を辿たどっていく一方じゃないでしょうかね。
アメリカのトランプ氏の政治に私は全面的に反対の立場ですが、ただ一つ、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」というキャッチフレーズで大統領へ返り咲いた。あんなふうにズバッと分かりやすく大衆にビジョンを発信するのが政治だと思います。

東洋思想研究家

田口佳史

たぐち・よしふみ

昭和17年東京都生まれ。新進の記録映画監督としてバンコク市郊外で撮影中、水牛2頭に襲われ瀕死の重傷を負う。生死の狭間で『老子』と運命的に出合い、東洋思想研究に転身。「東洋思想」を基盤とする経営思想体系「タオ・マネジメント」を構築・実践し、1万人超の企業経営者や政治家らを育て上げてきた。配信中の「ニューズレター」は海外でも注目を集めている。主な著書(致知出版社刊)に『「大学」に学ぶ人間学』『「書経」講義録』他多数。最新刊に『「中庸」講義録』。

数字が物語る日本の危うさ

横田 先ほど衰退の兆しは枚挙に遑がないと申しましたが、しかし仏教的に見ますと、この世の営みには必ず波があり、下りの波もあれば上りの波もございます。日本の悪い面が目につく一方で、先般復刊に尽力いたしました『ぜんかいいちらん講話』は増刷となっている。これは円覚寺初代管長のいまきたこうせん老師が、禅仏教の立場で儒教の教えを講じた『禅海一瀾』を、弟子のしゃくそうえん老師が講義したもので、これが多くの人に読まれているというのは、この国もまだまだ捨てたものではないと思うのです。私がご縁をいただく中小企業の社長様も、皆さん『致知』を読んで頑張っていらっしゃいますし、私は決して失望落胆はしていないんです。
歴史を繙けば、平安時代の末期などもどん底だったと思いますが、日本はそういう苦難を何度も乗り越えて今日まで来ております。
ですから先ほどの森信三先生のお言葉は、日本人にはそういう連綿と受け継がれた精神があることを踏まえておっしゃったのではないかと思いまして、私はあまり悲観をしていないのです。

 横田老師がおっしゃった波という意味では、日本という国は40年周期で時代が転換するとも言われていますね。どん底のたいせいほうかんから40年後に日露戦争で勝利し、その40年後に大東亜戦争に敗れ、さらに40年後が日本経済の絶頂。その40年後がいまです。ですからいまが底で、ここから復活するぞと森信三先生は思っていらっしゃったのかもしれません。
でも若い世代を見ていますと、我われの若い時よりはるかにイキイキやっているように感じます。彼らには日本の混迷、荒廃なんて認識はまったくないのかもしれません。

田口 若者はイキイキしていると。

 例えば、体罰がなくなりましたし、ハラスメントのたぐいに厳しい目が注がれるようになり、上から抑えつけるよりも自由にやりなさいという空気になっている。なおかつ少子化ですから、当然子供たちは大事にされています。
東大にしても、最近は政治や法律を学ぶ文科一類よりも、経済や文学などを学ぶ文科二類、文科三類の入試が難しくなってきている。優秀な学生には、組織に縛られる役人や大企業を目指すよりも、アントレプレナー(起業家)を目指し自由にやっていこうという傾向がうかがえます。そんな彼らに日本の混迷とか荒廃とか言っても、理解し難いものがあるでしょう。

横田 なるほど、いまの若者は日本の現状をそのように受け止めているのですね。

 実際、社会の混迷、荒廃を反映する日本の自殺者数は、2003年の3万4,427人をピークに、2021年には2万1,007人とおおむね3分の2に減っています。一時下げ止まっていた20代も今は着実に減少しています。間違いなくよい傾向だと思うのです。
IMFの調査で日本の一人当たりGDP(国内総生産)は39位にまで落ちていますが、これは円安の影響も相当あるでしょうし、そもそも若者たちは日本が貧しくなっているとは感じていない。なぜなら、彼らはバブルを知らないからです。

田口 我われの実感とは随分隔たりがあるわけですね。

 だからと言って、私はいまの日本に混迷、荒廃がないと言いたいのではなく、むしろ逆で、その兆候は数字にハッキリ出ています。
例えば、2018年にOECD(経済協力開発機構)が世界186か国の中学生に行った調査で、「親や教師を尊敬していますか?」という質問に対し、「はい」と答えた生徒の割合が一番高かったのは韓国、二位は中国でした。一方の日本は、何と186位、最下位だったのです。
別の研究グループの「もし戦争が起こったら国のために戦うか?」という質問に対しても、日本は「はい」と答える人の比率が世界79か国中最低でした。それから、2023年の米ギャラップ社グローバル職場環境調査では、仕事にやりがいを感じている(企業エンゲージメントが高い)社員の割合は、日本では5%しかいないことが分かっており、ダントツの世界最下位なのです。
こうした調査結果を見ると、日本という国がでガエルのようにじわじわと着実にむしばまれつつあることが分かります。親や教師をうやまわず、よその国から攻め込まれても我関われかんせずを決め込む。そして昔は世界一高かったはずの愛社精神もない。いまの日本はもうどん底にあると言わざるを得ません。

作家

北 康利

きた・やすとし

昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞受賞。著書に『思い邪なし 京セラ創業者 稲盛和夫』(毎日新聞出版)など多数。近著に『ブラジャーで天下をとった男 ワコール創業者 塚本幸一』(プレジデント社)がある。

命についての教育が失われた

田口 いまのお話の最大のポイントは、要するに「日本らしくない」ということだと思います。
日本には歴史的に見ても、日本ならではとか、日本人ならではと胸を張れるような素晴らしい特性や美点がたくさんあります。そしてその最たるものが、伝統精神文化です。ところがいまの教育現場では、この伝統精神文化についての教育が全く行われていなくて、先ほど申し上げた枝葉末節論に終始している。これは大問題だと思うんです。

 この国はどうあるべきかという根本的な問題について、国民が自分の頭で考えるということもしてきませんでしたしね。憲法改正の機会でもあれば、そういう議論も盛んになるんでしょうが、あいにく戦後は一度もそういう機会がありませんでした。
日本はサンフランシスコ平和条約を1951年の9月8日に調印し、翌年の4月28日に発効していますが、どちらも独立記念日になっていません。つまり、占領という屈辱の中から独立を回復した喜びを共有せず、この国のあり方を国民全員で考える機会をも持っていない。国家として一致団結する機会を失ってしまったままなのです。

横田 貴重なご指摘をたくさんいただきましたが、私は先ほど北先生がおっしゃった、日本人が敬うものを失ってしまったというお話が大変気懸きがかりです。国のために命を捧げた人に対する敬いの心、親や学校の先生に対する敬いの心。最近は「毒親どくおや」なんていう言葉も使われているようですが、これまで敬われてきたものをおとしめるような風潮には大変心が痛みます。

 実は、いまの日本は先進国の中で一番評伝、伝記が少ない国になってしまっています。なぜなら戦後、軍人も政治家も先生も否定され、同時に先人に対する尊敬の念、感謝の念が失われてしまったからです。私が評伝作家という労働生産性の低い職業で頑張っているのは、先人に学び、尊敬し、感謝する心を復活させることが、いまの日本に一番必要なことだと考えるからなんです。

横田 おっしゃる通りですね。渋沢栄一なんて、あれほど素晴らしいことをなさっているのに、枝葉末節のことで批判されていたりするのはとても残念です。根本を忘れていると申しますか、こういう風潮は何とかならないものでしょうかね。

田口 命というものに対する教育がないからだと思いますよ。だから命に対する実感もないし、命に対する敬いもない。かつての日本にはそういうものが非常に強くあったように思うんです。
『致知』では何度もお話ししてきましたが、私は25歳の時に、仕事で訪れたバンコクで二頭の巨大な水牛に襲われ、体をくししにされました。それまで生意気で強気一点張りだった男が、虫の息で王立病院に運び込まれたわけです。
意識を回復した時には、野戦病院みたいな病室に月光がパアッと射し込んでいて、体にはものすごい数の管がつなげられていました。ふとそばを見ると、女性の看護師さんがシュロの葉をパタ、パタと仰いで風を送ってくれている。「私は大丈夫でしょうか?」とつたない英語で尋ねると、彼女は「オフコース」と。「私の名前は幸福という意味なんです。そんな私が傍にいるのにダメなはずはないでしょ」と言ってくれたんです。何だかものすごく説得力がありました。私はその時、この世には絶対的存在というのがいると確信しました。そして、命はその絶対的存在とつながっているんだと。

 人間はそういう時に命の尊さを自覚するんですね。いまの子供たちには、そういう経験をする機会がほとんどないと思います。

臨済宗円覚寺派管長

横田南嶺

よこた・なんれい

昭和39年和歌山県新宮市生まれ。62年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。平成3年円覚寺僧堂で修行。11年円覚寺僧堂師家。22年臨済宗円覚寺派管長に就任。29年12月花園大学総長に就任。著書に『人生を照らす禅の言葉』『禅が教える人生の大道』『十牛図に学ぶ』『臨済録に学ぶ』など多数。最新刊に『無門関に学ぶ』(いずれも致知出版社)。