2021年4月号
特集
稲盛和夫に学ぶ人間学
インタビュー
  • 日本電産会長永守重信

気がつけば、稲盛さんと
同じような道を歩いてきた

日本電産会長の永守重信氏は稲盛氏より一回り年下の申年生まれ。共に京都の地で創業し、多くの苦労の末に町企業を1兆円企業に育て上げたという共通点もある。巷間、稲盛氏をライバル視し、闘争心を燃やしてきたとされる永守氏だが、永守氏にとって稲盛氏はどのような存在なのだろうか。76歳のいまも事業に情熱を燃やし続ける永守氏にお聞きした。

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稲盛氏に教えられた成長企業のトップのあり方

——永守さんは稲盛和夫さんと同じ京都で創業し、精密小型モーターのメーカーだった日本電産を1代で1兆円企業に育て上げられました。2021年で76歳になられるそうですが、いまなおバイタリティーにあふれていますね。

まだ現役バリバリですから(笑)。きょうは稲盛さんについてお話ができるというので、非常に光栄に思っています。

——そもそもの出会いはどういうものでしたか。

1973年の日本電産の創業から10年くらい経った頃だったと思います。もう亡くなられましたけれど牧さんとおっしゃる京都銀行の常務さんが「永守さん、これから会社を大きくしたいと思うなら、京都セラミック(当時)の稲盛さんと1度、会っておいたほうがいいですよ」と一席設けてくださいましてね。
稲盛さんとは同じさる年で、年齢は稲盛さんが一回り上なんです。

——すると、永守さんが39歳前後、稲盛さんは51歳前後の頃ですね。

ええ。当時、京セラは創業20年を越えて大いに驀進ばくしんしていた時で、まさに「京セラ、ここにあり」という感じでした。稲盛さんも経営者としてあぶらが乗り切っていて、話に非常に勢いがありましたね。実際、稲盛さんは猛烈に働いておられ、これが成長する企業のトップのあり方だということを身をもって教えられたんです。
会食が終わったのが夜の10時くらいだったでしょうか。私は当然、それから家に戻らずに会社に帰るわけですけれど、稲盛さんも会社に帰られると聞いて、「やはり、この人は半端ではないな」と思いました。そんな経営者にそれまであまり会ったことはなかったし、印象は大変強烈でした。その時の勢いのある姿はいまでも目に焼きついています。

——同じ経営者として強く意識するようになったのですね。

その日から目標が1段も2段も上がりました。京セラという会社と稲盛さんという人物を追い求めるのが私の目標になりました。もちろん、最初から同じことはできませんから、まずは真似まねるところから始めたんです。

——真似る?

稲盛さんより少しでも長く働こうと思い、社員にも「京セラに負けないくらい働こう」と言い続けました。
私は当時、東京に出張する時、いつも朝一番の新幹線に乗り、最終の新幹線で帰っていました。京セラの本社ビルがその頃、京都の山科やましなにあって、最終の新幹線に乗ると、午後11時半くらいにその横を通るんです。見ると煌々こうこうと電気がついている。京都駅に着くなり公衆電話で社の連中に連絡をして「やってるか」と聞くと「いま昼飯です」と(笑)。
いまだったらブラック企業もいいところですが、当時はそれが当たり前で、悠長なことばかり言っていたら会社は伸びるはずがありません。

——当時の2社のすさまじい熱気が伝わってきますね。

京セラとは仕事上の取り引きもありましたから、時々、社員を連れて工場にお邪魔させてもらいました。そうすると「売り上げ○○○○億円」と張り紙がしてあって、社員さんも皆やる気満々なんですよ。しかも工場内の掃除は行き届いていて、駐車場は車の向きがビシッとそろっている。その様子を見ながら「我われの会社は、これから京セラを模範にしていくぞ」とげきを飛ばしました。稲盛さんがコンパをやられていると聞けば、私もやりました。
稲盛さんに出会って、また京セラという会社に出会って日本電産の方向性が定まった。そのことは間違いないですね。「成長企業とはこうあるべきだ」という、いわば1つのお手本を得ることができました。我われが掲げている「情熱、熱意、執念」「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる(最後までやる)」という企業理念も、そうやって京セラを追いかける中で生まれたんです。

日本電産会長

永守重信

ながもり・しげのぶ

昭和19年京都府生まれ。42年職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科卒業。48年日本電産を設立し社長に就任。小型モーターで世界的に事業を拡大。現在は会長兼最高経営責任者(CEO)。平成30年京都先端科学大学を運営する学校法人理事長に就任した。著書に『情熱・熱意・執念の経営』(PHP研究所)など。