2019年10月号
特集
情熱にまさる能力なし
対談
  • (左)HILLTOP副社長山本昌作
  • (右)浜野製作所社長浜野慶一

危機を乗り越えた先に
見えてきたもの

ヒルトップも浜野製作所も、もともとは小さな町工場だった。それを社会の耳目を集める有名企業に変革したのが山本昌作氏、浜野慶一氏である。ともに工場火災という危機を乗り越え、会社を大きく飛躍させてきた両氏に、これまでの道程、企業経営に掛ける熱い思いを語り合っていただいた。

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中小企業のフロントランナーでありたい

山本 お互い親しい間柄なのに、めったに会えないよね。浜野さんは売れっ子の経営者で忙しくされているから、この対談のおかげで久々にお目にかかれた。

浜野 山本さんから売れっ子なんて言われると、ちょっと恐縮してしまいます(笑)。私は大先輩の山本さんを師匠として尊敬し、ヒルトップさんの経営をいつもお手本にしているんです。

山本 浜野さんが京都で講演されたのは4、5年前でしたっけ? その時お会いしたのが最初でしたね。浜野さんにはそれ以来、うちの工場に何度も足を運んでいただいて……。

浜野 だって山本さんは京都の小さな部品工場を、いまや従業員170人、アメリカのウオルト・ディズニーやNASAナサなどと取り引きができる会社にまで育て上げられたじゃないですか。私たちはまだまだそのレベルに達していない。山本さんに少しでも近づきたいと思って奮闘しているところです。

山本 ディズニーなんて僕のあこがれの会社でしたからね。そんな会社と取り引きができるなど考えてもいませんでした。ただ、僕たちは世界に向かって何かを発信することを意識しているわけではないんです。日本の製造業がこのまま行ったらまずいという思いがとても強くて、日本の中小企業のフロントランナーでありたい、というのが一番の思いです。
浜野さんもご存じのように、日本の中小企業のほとんどは下請けとして冷遇されているわけでしょ? 僕自身も孫請けでいじめられて、親会社の言うことは何でも聞かなきゃ駄目だ、言うことを聞かなかったら仕事が止められる、というみじめさを味わってきたわけです。そこから何とか脱却したい、家畜になるのは嫌だ、という一念でここまでやってきたんです。

浜野 そうですね。誇りを持って仕事ができるようになるためにも、惨めな現実を変革したいという山本さんの思い、私もまったく同感です。しかも、山本さんはその思いを未だに失わずに変革を続けられている。アメリカ進出はまさにそうじゃないですか。

山本 アメリカに進出したいという夢は20年以上前から抱き続けていました。光、レーザーの最新機器を視察する目的でアメリカ各地を旅した時、どうしてもシリコンバレーでビジネスをしたいという思いが湧いてきました。僕たちの世代は、アメリカに対する憧れがとても強いものですから。

浜野 その思いをかなえられたのが、アメリカ支社CEOであるご子息の勇輝ゆうきさんですね。

山本 はい。勇輝は2014年にアメリカに現地法人を立ち上げました。うちの会社も大所帯になりましたので、僕としても一度、アメリカに息子を行かせることは責任の意識を植えつけるいい機会だと考えたんです。本人は意気揚々として行きましたけど、相当苦労したと思います。

浜野 いや、それは大変だったでしょう。

山本 だけど一面では、やりやすかったのではないかとも思うんです。というのは、いまもそうですがアメリカには僕たちのような試作部品の開発をする企業はとても少ないんですね。15、6年前の日本と同じで試作産業というものがない。僕たちは現在、医療機器、精密機器、航空機など様々な業態の試作部品を製造しているわけですが、アメリカで開いた展示会にはディズニーやNASA、アプライド・マテリアルズなど錚々そうそうたる会社が来ていて、息子が最初に受注したのはディズニーのアトラクション部品の試作でした。
現在、アメリカ企業との取り引きは約1,000社にのぼりますが、試作産業がないアメリカで、上手い具合に追い風に乗れたのは確かだと思います。

浜野製作所社長

浜野慶一

はまの・けいいち

昭和37年東京都生まれ。東海大学政治経済学部卒業後、都内の精密板金加工メーカーに就職。平成5年先代の死去に伴い浜野製作所社長に就任、設計・開発や多品種少量の精密板金加工などの他、電気自動車「HOKUSI」、深海探査艇「江戸っ子1号」の開発にも携わる。著書に『大廃業時代の町工場生き残り戦略』(リバネス出版)。

新たなチャレンジを通して事業構造を変える

浜野 いつもそうなんですけど、山本さんのお話はとても勉強になりますね。アメリカ進出にしろ、突然何かを始めるのではなくて、そこにはきちんとした事業のストーリーがあることも、今回の大きな発見でした。
私たちの会社は山本さんのような海外展開はありませんが、日本全国の中小・零細町工場(製造業)とネットワークを組んで、いままでになかった製品を創り出したいという思いは同じです。

山本 浜野製作所ももともと部品加工の工場でしたね。それがいまや行政、早稲田大学、地元の中小企業と連携して電気自動車をつくったり、海底探査機「江戸っ子1号」の開発に携わったり、ベンチャー企業を育成したり、常にいろいろなことにチャレンジを続けられている。

浜野 私もまた、朝から晩まで必死に働いても娘さんを私立高校に通わせられなかったり、仕事に対する誇りを失ってしまったりと、廃業に追い込まれる下請け企業を数多く目にしてきたので、この現実を何とか変えたいと思ったんです。実際、私の会社がある墨田区では最盛期に1万社近くあった町工場がいまや1,900社。工場集積地の大田区や東大阪市も同じような深刻な状況が続いています。
経営者に高い志はあっても、下請けに甘んじる他ない現状では、町工場本来の実力を発揮することなどできません。しかし、町工場の思いが地域や次の世代につながって、その事業が最終的に世の中の役に立つようになれば、町工場といえども存在意義が生まれ、存在意義がある会社は生き残れるのではないか。その先駆けになれることを自分の手で始めたい、というのが私の思いなんです。

山本 それで地元を巻き込んだ取り組みを続けているのですね。

工場とは思えないほどポップでカラフルな浜野製作所の工場(上)。工場内では老若男女問わず皆がイキイキ働く(下)

浜野 産学官連携などと言うと、下請けでは儲からないから、大学などと協力してニーズとシーズ(企業の技術、能力)をマッチングさせ、そこで開発した製品を売り上げの柱にするイメージがありますが、弊社の場合は少し違います。
早稲田大学と一緒になって電気自動車をつくりましたが、つくれるか、つくれないかで言えば、大変だけれどもつくれます。しかし、つくった電気自動車はまず売れません。販売やサポートの体制に関する知識やノウハウは何も持ち合わせていないわけですし、既に大手競合他社が存在しています。売れないことは最初から分かっていたんです。
では、売れないものをなぜ開発したのかと言えば、私は自社の事業構造を変えたかったんですね。父が創業した浜野製作所は長い間、部品加工の下請けをやってきたのですが、それだけでは事業を継続させていくことが厳しくなってきました。しかし、長年培ってきた加工の技術・経験が加工屋の強みであることは間違いないので、そこに何かを付随させようと考えました。それが15年ほど前に始めた産学官連携でした。そして、それは本業の精密板金加工以外の電気自動車、海底探査機という新しい分野で実を結んでいったんです。

HILLTOP副社長

山本昌作

やまもと・しょうさく

昭和29年京都府生まれ。立命館大学経営学部卒業後、父親が創業した山本精工所(現・HILLTOP)に入社。鉄工所でありながら、量産、ルーティンのない会社へと変革。現在では、スーパーゼネコンやウオルト・ディズニー、NASAなどの仕事も請け負っている。名古屋工業大学工学部講師。著書に『ディズニー、NASAが認めた遊ぶ鉄工所』(ダイヤモンド社)。