2019年10月号
特集
情熱にまさる能力なし
対談
  • 作家小島英記
  • ナンシュウ社長西郷隆夫

南洲と鉄舟

明治を開いた二人の英傑の熱誠に学ぶ

日本史に残る江戸城無血開城に大きな功績を果たした西郷隆盛(南洲)と山岡鉄舟。この二人の英傑が出逢わなければ明治維新の大業は決して成らなかっただろう。山岡鉄舟の評伝を刊行した作家の小島英記氏と、西郷隆盛を曾祖父に持つ西郷隆夫氏に、その二人の英傑の生き方、いまなお私たちを惹きつけてやまない人間力の源泉を縦横に語り合っていただいた。

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自分の功を誇らない春風のように爽やかな人

小島 きょうは、幕末維新の英傑えいけつである西郷隆盛を曽祖父に持つ隆夫さんと対談ができるということで、楽しみにしておりました。

西郷 こちらこそ、曽祖父と非常に縁の深い山岡鉄舟の評伝を書かれた小島先生とお目にかかることができて、大変光栄です。小島先生はどのようなきっかけで鉄舟さんの評伝を書かれたのですか。

小島 私は子供の頃から、高野弘正たかのひろまさ先生の元で一刀流を修業していたのですが、鉄舟は同じ剣の道統の大先輩なんですよ。それで剣術や鉄舟に関する資料を収集してきましてね。ようやく50歳になった頃にまとまったものが書けるかなと思い、2002年に『山岡鉄舟』という本を刊行しました。
具体的に鉄舟のどのようなところにかれたかといいますと、東京・四ツ谷の仲町に「春風館しゅんぷうかん」という鉄舟の道場があったのですが、その名前は、南宋の僧で鎌倉円覚寺えんがくじの開祖である無学祖元むがくそげんに由来しているんです。
南宋がモンゴルのげんに侵略された時、無学祖元がいたお寺も襲われます。元軍が刀を手に迫り、首をねようとしたその瞬間、無学祖元が唱えたのが次の偈です。

 乾坤けんこんきょうを卓するの地なし、
 喜び得たり、人くうにして法もまた空なりと、珍重す、大元三尺の剣、電光影裏、春風を

これは、「電光のようにはやく鋭く、三尺の剣で我がくびに斬りかかる。それも結構だ。だが、それは春風を斬るようなもので、斬っても斬れるものではない。元来、空と観じている我が身だから」というような意味ですが、元の兵士はその無学祖元の気迫にまれて、辟易へきえきして剣を振り下ろすことができず、退散したと伝えられています。

西郷 すごい気迫、境地ですね。

小島 無学祖元の気迫もさることながら、春風という言葉には無念無想といいますか、どこか澄み切った気が感じられます。私の鉄舟という人の印象も、まさに春風のように非常にさわやかなんです。
また、鉄舟は戊辰ぼしん戦争時、義兄の高橋泥舟でいしゅうの推挙で15代将軍徳川慶喜よしのぶの使者となり、江戸に迫る官軍陣地を突破して西郷さんに直談判し、江戸城無血開城のお膳立てをしました。しかし、その功を全然誇らない。そういう無私無欲なところにも惹かれましたね。

作家

小島英記

こじま・ひでき

昭和20年福岡県生まれ。早稲田大学政治学科卒業。日本経済新聞パリ特派員、文化部編集委員などを経て作家活動へ。剣道を一刀流中西派の故・高野弘正宗家に師事、七段允許。『評伝横井小楠』(藤原書店)『幕末維新を動かした8人の外国人』(東洋経済新報社)『山岡鉄舟』(日本経済新聞出版社)など著書多数。

西郷さんが惚れ込んだラストサムライ

小島 ただ、いろいろ調べていきますと、関連する本は多く出ているものの、鉄舟の決定的な伝記というものはないのです。

西郷 それはどうしてですか。

小島 鉄舟は自己顕示が何より嫌いな人でしたから、自分のことをあまり書き残していないことが一つ。その一方、非常に魅力ある人ですから、周囲がいろんな話を創り上げていて、うそか本当か分からない話がいっぱいあるんです。
最初の『山岡鉄舟』を書く時にも、資料を読み込むほど真偽のほどが怪しまれる話が多く、ほとほと難儀しました。ともかくも自分なりの結論を得て出版に至ったわけですが、幸いよい反響を多くいただくことができました。
とりわけ、一刀正伝無刀流六代の村上康正先生に「他の鉄舟本とは違う」とお褒めの言葉をいただいたことは嬉しかったですね。

西郷 素晴らしいことですね。

小島 さらに村上先生は、400字詰原稿用紙50枚に書かれた、ご自身で調べられた鉄舟に関する資料を託してくださり、10年ほど時間をかけて鉄舟の真実の姿を追求してほしいと望まれました。お手紙によりますと、知人から私の本を贈られて、またろくでもない鉄舟本が出たと思ったら、案外、生真面目きまじめな作品だったので資料を託そうと思われたらしいのです。
そうして村上先生の資料も参照し、2018年に『山岡鉄舟~決定版』を出しました。結局、10年以上掛かり、村上先生も亡くなられ、遅すぎる約束でしたが、7代の井崎武廣先生に喜んでいただけたことはよかったと思います。

西郷 よく西郷さんは日本の最後の侍、「ラストサムライ」だと言われますが、僕は鉄舟さんこそラストサムライだと思うんですね。
徳川慶喜の使者として西郷さんに直談判しに行った時も、「やってできないことはない。ただやらないだけだ」という気構えで、敵陣に乗り込んでいく。庄内藩士がまとめた西郷さんの言行録『西郷南洲なんしゅう遺訓』にも「正道を踏み国をたおるゝの精神なくば、外国交際はまったかるからず」と、外交というのは命懸けでやるくらいの覚悟と勇気が必要だと書かれていますが、まさに鉄舟さんはそれを実際の行動としておやりになった。

おそらく、西郷さんは鉄舟さんと対面した時、自分と似たものを感じ、幕府の敵方ながらすごいやつがいる、あっぱれだと「ほの字」になったのだと思います。もう一目でれてしまったんですね。
だからこそ、その後、西郷さんと勝海舟の会談が実現に至り、維新後には、西郷さんは敵方の旧幕臣である鉄舟さんを明治天皇の侍従じじゅうに推薦したのだと思います。

ナンシュウ社長

西郷隆夫

さいごう・たかお

昭和39年兵庫県生まれ。鹿児島市在住。中京大学法学部法律学科卒。㈱ナンシュウ社長。ツアーガイド・旅行企画・各種講演などの活動を通して、鹿児島の観光と西郷隆盛の実像を広める活動に取り組んでいる。著書に『西郷隆夫の「一点」で囲む』(ジャプラン、高岡修監修)などがある。